【福音宣教】 富める青年の悲しみ

2023年3月5日 ルカ18:18-25 

先週、私たちは「幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」と言われたイエスさまの言葉を学びました。幼子が保護者に対して疑うことなく不安を覚えることなく、全面的に信頼し委ねているように、父なる神と御子イエスキリストに信頼するならば、身分や立場や貧富の差や何を成し遂げたかという業績や善行に関わらず、神の国に入ることができるというメッセージでした。イエス様とともに生きるならば、神の国の現在にすでに生きることができている、なんと幸いなことです。「心の貧しい人は幸いです。神の国はその人のものです」(マタイ53との祝福を経験しているからです。

一方、対照的に律法を守ることにおいても落ち度のない役員、しかも社会的にも裕福な青年(マタイ1920)が、イエス様を訪ねてきました。

1. この世的によくできた青年
彼は「役員」という社会的な立場もあり、礼儀正しくイエス様に「尊い先生」(18)と挨拶をし、「何をしたら永遠のいのちを自分の者として受けることができるでしょうか」(18)と、真剣でまじめな質問をしてきました。彼には長所と短所が見られました。長所とは、「永遠のいのちを自分のものにしたい」という霊的な願いをもっていることでした。社会的に高い立場にあっても、恵まれた裕福な育ちであっても、物の豊かさの中で満足してしまうのではなく、救いを求める霊的な渇きがありました。見どころのある好青年といった印象を受けます。イエス様を彼をいつくしんでおられます(マルコ1021)。

短所とは、「何をしたら」とやはり当時の律法学者たちの伝統的な教えを受けて「行いや良き業を重ねることで」永遠のいのちが得らえると思い込んでいた点でした。ですからイエス様が伝統的に守るべきとされる対人的な「5つの戒め」を話すと「そんなことは幼い時からみんな守っています」(21)と即答しました。イエス様は「本当か?」と突っ込みをいれることなく、視点を変えて質問しました。私たちならば「そんなの嘘でしょう。ちょっとぐらいは嘘もついたでしょう。真っ赤な嘘とつかなくてもピンクの嘘ぐらいはついたでしょう?」「泥棒はしなくても、駅の切符販売機に残っていた100円玉は黙ってポケットにいれたことはあるでしょう?」などと言いたくなります。でもそうすることで「何をしたら」という「行いによる救い」と「どれぐらいまでのことをしたら」という「行いのレベルの高さ低さ」という議論に巻き込まれてしまうことになります。

2. イエス様のチャレンジ
イエス様は彼にひとつのことを求めました。「わたしについて来なさい」(22)という招きでした。イエス様を信じ弟子として従う生き方は、一人一人の立場で2つのことが実は求められます。一つは「持ち物を売り払う」こと、もう一つは「貧しい人々に分け与える」(22)ことです。前者は、「こだわりや囚われや執着」を断ち切ることを学ぶことを意味します。後者は、生まれながらの富める者の立場から、貧しい人々の立場に身を置いて、共に生きることを学ぶことを意味すると私は理解しています。

イエス様は文字通り、「全財産を捨てよ」と命じているわけではありません。ちゃっかりした人は「持ち物は売り払いますが、現金は残しておきます」と言うかもしれません。もちろんガリラヤ湖で漁師をしていた最初の弟子のペテロやヨハネたちは、「網を置いて船を捨ててすぐに従いました」。中世のカトリックの修道士の多くが「全財産を貧しい人に分け与え」無一文となって修道院に入りました。サンタクロースのモデルとなった聖ニコラスが全財産を貧しい人々にプレゼンとしたエピソードは有名です。ところがイエス様と弟子たちの伝道旅行を背後で支えたのは豊かな階級に属する多くの女性たちでした。ベタニアのマリア姉妹はイエス様と弟子たちに宿を提供し、毎回食事を提供するだけの資産を持っていました。パウロのヨーロッパでの宣教を支えたのは高級な紫布を扱う貿易商のルデアでした。プリスキラとアクラ夫妻もテントづくりの商売を各地で行い家を持っていたようです。つまり、「あなたの宝のあるところにあなたの心がある」(ルカ1234)とイエス様が言われたように、自分に幸福をもたらし自分を守り支えてくれると信じている、心の宝となっている持ち物、財産、誇りや名誉を一度、切り離しなさい。いわば心の偶像となってしまっているものを脇に置き、離れなさい。それはそのまま「幼子のような心」つまり、神様以外をよりどころとしない、「心の貧しい人」となる霊的な経験を指しています。

第二に、裕福であればあるほど貧しい人々の生活から遠く離れ、実感がわかないものです。「パンが無ければケーキを食べればいい」とある王女が無邪気に言ったそうですが、貧しい人々の生活、生き方と乖離してしまっている証拠です。最近、テレビで「からのお皿とスプーン」の写真に、「最初の一粒さえ食べられない子供がいます」と訴える国連世界食糧計画(国連WFP)のCMが話題になっています。気候変動や紛争で、世界で2億8000万人が飢餓で苦しみ、10人に1人の子どもが飢餓に陥っているとのことです。

この青年は「隣人を愛せよ」という戒めを知っていても、彼にとっては裕福な仲間たちは隣人であっても、貧しい人々は隣人ではなかった。したがって彼等の生活を思いみることも想像することさえなかったかもしれません。その場におりて手を差し伸べることさえ思い浮かべなかったことでしょう。イエス様が語る愛(アガペー)はいつでも、「行動する愛」(動詞形の愛)です。知識はどれほど多くても徳を高めることと結びつきません。ましてや愛を深めることはないでしょう。

「私についてきなさい」(22)。イエス様に従っていく中で、つまりイエス様とともに生きる中で、行動する愛を私たちは学び続けることができるのではないでしょうか。「神はひとり子を世に与えるほど、世を愛してくださった」(ヨハネ316)、御子も十字架でご自身のいのちを与えるほど私たちを愛してくだったのです。愛は行動を伴います。

財産を持っていても持っていなくても、「貧しい人々とともに生きる」ことはできます。イエス様は、多く与えられた者は我欲に固執するのでなく、より多くを与え、共に生きていくことを選ぶ、そうした考え方の転換を、富める若者に求めたのでした。

3. 悲しげに立ち去った

彼はイエス様の真意を理解できませんでした。マタイによれば「悲しんで去っていった」(マタイ1922)と記されています。彼がいつかイエス様の真意を理解し、イエス様を受け入れ、貧しい人々とも共存していく人生を選びなおすことを期待しています。あの強欲なザアカイでさえ晩年、回心し救いを得ることができたのですから。地に宝をもつ生きかたから、しがみついてたものを手放し自由を得て、富への依存や囚われといった心の偶像から分離できるとき、天に宝を積む生き方、すなわちキリストと共に神の国の現在に生きる、永遠のいのちに今を生きる道を、歩み続けることができるのではないでしょうか。                         


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