【福音宣教】 失われた息子を待つ父の愛

2022年10月30日  ルカ15:11-24

イエス様が語られた「失われたものの回復」の3部作目は「放蕩息子の帰還」と呼ばれるたとえ話です。レンブラントの絵画はとくに有名ですが、この物語の主人公は、親の財産を食い尽くしてしまった弟息子ではなく、彼の帰りをそれでも待ち続ける父親です。羊飼い、乙女、父親とこの一連のたとえ話の登上人物がそれぞれ、良き羊飼いなる救い主キリスト、真の人間性を回復してくださる聖霊、そして父なる神を表していることも理解できるのではないでしょうか。

1. 失われた息子

ユダヤの国では家督は長男が受け継ぎましたから、次男三男はいわば居候のような形になります。弟息子はこのまま父の家に居ても居場所がないと思ったのか、むりやり父親に願って財産を分けてもらい、父の家と村を離れ都会へ出て新しい生活を始めます。父親の家には雇人も多くいましたから相当裕福な家柄だったのでしょう。独立する資金は十分持っていたことでしょう。当時の習慣では、兄は2/3、弟は1/3が財産分与とされました。

ところが、田舎育ちの若者が財産をもって東京に来て華やかな生活を始めたと想像しましょう。お決まりのコースを歩んでしまいました。遊女におぼれて放蕩三昧な生活を繰り返し湯水のように財産を使い果たしてしまいました。金の切れ目が縁の切れ目とばかり、取り巻き連中はさーっと消えてしまいました。「東京砂漠」という流行歌が昔ありましたが、都会の中の砂漠のような居場所のなさと孤独に苦しみ、ついにはユダヤ人にとっては屈辱的な豚飼いの仕事までしてなんとか食いつなぐほどでした。


「放蕩息子」というタイトルが一般的につけられますが、むしろ人生の道を見失ってしまった一匹の羊、裕福な家柄の息子・御曹司であるという本来の身分と誇りや自尊心といった輝きを失ってしまった一枚の銀貨と言ってもよいかと思います。「失われた人」というタイトルのほうがよりふさわしいと私は思います。

2. どん底の時こそ、神に立ち帰る恵みの時

・ギリギリの状況に追い込まれた彼でしたが、ついに転機の時が訪れました。堕ちる所まで堕ちて自暴自棄になって犯罪を犯すか、精神的に破綻してしまうか、人生に絶望していのちを絶つかの瀬戸際で、彼にはもう一つの道が開かれました。失っていた居場所を思い起こすことができまたのです。何もかも失ってしまった彼でしたが、それでも失っていない居場所が一つだけありました。このどん底で、彼は暖かい父の家を思い起こすことができました。

・「我に返った」「本心に立ち返った」(1517)とあります。「立って父のもとに帰ってこういおう。天に対しても父に対しても罪を犯しました」(18)ともあります。立って、かえって、罪を犯しましたという動詞はすべて不定過去、堅い決意をしめします。罪とは天に対して、次に父に対してとあるように、まず神様への罪が第一、次に対人的な罪があることも彼は気がついています。神様のもとに立ち返り、罪を犯しましたという告白は、聖霊の働きによるものでした。聖霊は、「罪について、義について、審判について誤りを認めさせる。真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れる」(ヨハネ16813)お方です。

・父と父の家を思い起こすことができた時、その記憶は彼を悔い改めへと導きました。

クリスチャンの多くが幼い頃、教会で開かれている日曜学校に通っていたといいます。私もそうでした。教会の存在は幼い心に不思議な霊的なインパクトを残します。真理の御霊は、私たちの記憶の底に残っているぬくもり、暖かさ、優しさを手掛かりにして働きかけ、本心に立ち返らせ、父のもとに帰る決心を導きます。これを悔い改めと言います。神に向かって舵を切る、方向を転換することを意味します。神のもとを離れ「遠い所へ」(13)へ来てしまった、「信仰や希望や愛」ではなく「金」を中心とした世界へ来てしまったことを実感したのでした。喜びではなく不安とむなしさの中にたたずむ自分を知ったのでした。

・彼にとって、父の家は近いけれどとても遠い家でした。こんな姿で父の家に帰る道はできれば一番通りたくない道、避けたい道でした。しかし聖霊は再び逃げ出すことを許しませんでした。聖霊に導かれた彼は、もう2度と逃げ出す道を選びませんでした。迷うことなく、「父の息子と呼ばれる資格はないが、雇人の一人でもいい、父の家に帰ろう」と心を決めました。聖霊が悔い改めと謙った心へと導きました。

3. 待ち続けていた父の愛

・父の家に近づいたとき、彼は思いもよらない経験をしました。なんと、遠くから息子の姿を見つけた父親が大急ぎで「走りだしてやってくる」姿でした。ある画家はこの時、急いで飛び出したので片方のサンダルを履くのを忘れている父親の足元を描きました。題して「走り出す父」。感動的な絵ではないでしょうか

年寄りはじっと座っていて走りません。年老いた父親を走らせてはいけないのです。息子の方が走りださなければならないはずです。しかし息子ではなく父が走り出す! これが福音です。息子が必死で走り出したら、これは律法の世界です。「父が走り寄る」これがキリスト教です。

・追い出されると覚悟していたのに、迎え入れられた。父からきびしくなじられ叱責される、「こういう結果になると、初めから忠告していただろう」と非難されると思っていたのに、父親はなにも言わず、抱きしめ受け入れてくれた。「見つけ」「憐れに思い」「走り寄り」「抱いて」「口づけし」とすべての動詞は不定過去形、ゆるがない強い父親の意志を表しています。彼は「父親の愛」をこの時、初めて知ったのではないでしょうか。これほどの大きな愛を持って、父は私を愛してくれていたのだなと。幼い時からずっと、そして反抗して家出をしたあの最悪の瞬間でさえも。音信不通で父を無視し続けていた時でさえも。

「この息子は死んでいたのが生き返り、居なくなっていたのが見つかったのだから」(15:24)喜び祝うのは当り前である、これが父の愛でした。

この父親の姿は、まさに「父なる神の愛」そのものです。そして「信仰とは、神の愛に圧倒される」ことでもあるのです。父の愛に圧倒され、キリストの十字架の愛に圧倒され、「ここに愛がある」(1ヨハネ410)と神に感謝して生きること、それが渡会たちの「信仰」なのです。

・下着メーカーのグンゼは京都府綾部市が創業の地で、創業者の波多野鶴吉さんは放蕩三昧の生活の中から悔い改めて、神に立ち返って新しい人生を歩みだした一人でした。女工哀歌で描かれるような時代の中にあって、彼は「神の愛を事業の精神」において製糸工場を経営しました。父なる神は罪人を、失われた者を待ち続け、御子の十字架による赦しと癒しと回復へと導いてくださるのです。父の家に住まい続ける幸いがここにあります。

「まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは、むしろ神の宮の門口に立ちたいのです」(詩篇8410


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