【福音宣教】 上座に着く者、下座に就く者

2022年9月18日  ルカ14:7‐14

パリサイ人たちの食事会に招かれた時、イエス様は客たちが上座を選んでいる様子をご覧なり、譬えを話されました。「婚宴に招かれた時には、上座に着くな、末座に行って座りなさい。自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるであろう」(8-11)。

私の父はホテルマンでしたから結婚式の準備にはかなり神経を使っていました。名簿と用意するテーブルの上の名札に間違いがないか。座るテーブルの位置、テーブルの中の座る順番までミスがないように確認していました。結婚式では主賓は奥の上座、出口付近が下座で新郎新婦の家族が座る場所とされています。ところが横長の宴会場だと区別がつかず、結局は入り口付近で立って待っている光景をしばしば見かけます。

1. 上座を好む世の人々

・イエス様のこの譬えは直接的には、社会的に高い立場にあるパリサイ人や律法学者に向けられています。彼らの世界は階級社会・序列社会であり順位が決まっていましたし、一般民衆からは「ラビ」(先生)と呼ばれていましたから、会堂では前列の上席、結婚式など公の場では上座を選んで座るという習慣が身についていました(マルコ1238-40)。律法を厳格に守っている我々は特別な地位にあり、敬意を払われて当然だと自負していました。下座に案内されようものなら、プライドを傷つけられ「失礼極まりない、主催者を呼んで来い」とばかりに怒りだすことでしょう。わかりやすく言えば、「誰が一番偉いか」という価値観が根底にあり、序列を競う優劣意識が常に働いているわけです。上座を選んで座るというのはその象徴的な行為でもあったのです。

・ところが「誰が上座に坐る資格を持っているか」ひいては「誰が一番偉いのか」という序列を競う意識は、パリサイ人や律法学者たちの中ばかりでなく、イエス様の弟子たちの中にもみられました。あるときヤコブとヨハネが「栄光をお受けになる時、一人をあなたの右に、一人をあなたの左に坐るようにしてください」(マルコ1035)とひそかに大臣の椅子を頼み込んできました。さらにそれを知った残りの10人が「腹を立て」(41)イエスさまに詰め寄りました。同じ穴のむじなです。イエス様がユダヤの国の王になられるなら、左大臣・右大臣にはこの私を!と考えていたから、「先を越された!」と思い、腹を立てたのでしょう。

・パリサイ人であれ、イエス様の弟子たちであれ、私たち現代に生きるクリスチャンであれ、誰であっても人間は、周囲の人々から「尊敬されたい、立派だ、偉い、なかなかのものだと認められたい」という願望、「尊敬・承認の欲求」を持っています。誰であっても自分をバカにされたり、低く見られたり、さげすまれたり、プライドを傷つけられることを願いません。自虐ネタを売り物する芸人もいますが、「ほんとにあなたってばかね」といえばきっと「ばかにするな!」と怒りだすことでしょう。

問題は、その欲求が満たされた後の行動です。「だから偉そうにする、傲慢になる、当然だとばかりに高ぶる」さらには「他の人を見下す、軽蔑する、差別する、優越意志に立って支配する」とエスカレートしてしまうからです。

・イエス様は先ほどの「抜け駆け事件」に対して弟子たちに「偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかしあなたがたの間では、そうではありません。あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:43)と語りました。「偉くなりたい者は、仕える人になりなさい」これがイエス様の中心メッセージでした。

2. 仕える生涯を全うした主イエスの歩かれた道

・ですから「下座に坐りなさい」というイエス様のことばは、パリサイ人や律法学者たちへの痛烈な非難というだけではなく、公けの場所でのエチケット・作法に関する教えでもなく、謙遜でありなさいという道徳的な教訓でもなく、「神と隣人に仕える者として生きる」という「生き方そのもの」を示していることばだと言えます。「しもべとして仕えて生きる生き方」は、この世の生き方とは正反対です。生まれながらの人間、肉なる人間が好んで選ぶ人生の道とは真逆です。神に背を向けて生きる罪人の生き方は、世界の中心に自分を据え、周囲の者を自分に仕えさせる自己中心のあり方を押し通します。

一方、「神と隣人を愛して、仕えていきる生き方」は、イエス様が歩まれた道であり、33年半の生涯の生き方そのものでした。イエス様が弟子たちに示された「新しい人生の道」でした。イエス様の誕生から十字架の死に至るまでの、ご自身の全生涯を貫いておられたゆるぎない「信仰による人生の道」だったのです。

パウロは主イエスの人生をこのように表現しています。「キリストはご自分を無にして、仕える者の姿を取り、・・・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ26-9)。

・神の御子だからこそ歩むことができた道だったのでしょうか。いいえ、主イエスは信仰によって十字架の死にまで歩まれたのです。罪のゆえに一人も滅びず、赦しを得て永遠のいのちに生きるようにと願われたイエスの愛のゆえです。それゆえ、主イエスの十字架の愛を学んだ者たちに対して、御霊の愛といのちが、「しもべの道」を歩ませてくださるのです。弟子たちは最後の夜、主イエスが自ら腰に手ぬぐいをまき、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗われた姿に衝撃を受けました(ヨハネ135)。それは使用人であるしもべ以下、奴隷がする仕事だったからです。「あなたがたも互いに足をあらいなさい」「私は模範をしめした」(14-15)とイエス様は諭しました。まさに上座を好んで選ぶ生き方ではなく、下座どころか玄関口で奴隷として仕える生き方を、主は示されたのでした。

これは、人に対する道徳倫理的な「対人的な謙遜な生き方」ではなく、神に対する信仰によってのみ始まる「対神的なしもべとしての生き方」を表しているのです。

「だからあなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなた方をたかくしてくださるであろう」(第一ペテロ56)とペテロは命じています。 

「低くする」(受動態・不定過去)は、自分で謙虚になるのではく、謙虚にされたことを意味します。自分でやがて高くしてもらえるから今、謙虚になっておこうという「下ごごろ」や「計算」からでもありません。神の御手のもとで、高ぶりや自己中心の肉の思いが取り扱われ、砕かれ、仕えられる者ではなく、仕える者、神と隣人のために喜んで生きる者と変えられたことを指しています。そのような十字架の主に従う生き方の上には、やがて神の栄光が輝くのです。実例をひとつ紹介しましょう。

・かつて奴隷船の船長として多くの黒人を売りさばいて富を築いていたジョン・ニュートンというイギリス人がいました。アフリカから帰国中、難破し沈没寸前の時、7歳で亡くなった母の教えを思いだし、嵐の中で初めて祈りました。神の奇跡を経験した彼は、聖書を徐々に読むようになり、イエスキリストの存在は日毎に大きくなっていきました。30歳の時、ついに奴隷船の船長を辞め、英国国教会の聖職者の道を歩みだし、やがてオル二―の町の小さな教会の牧師となりました。うつ病の為、心を病んで移り住んだ詩人W・クーパーと友人となり、礼拝のために二人で多くの讃美歌を作りあげました。その中の1曲が「アメージング・グレイス」でした。彼は奴隷貿易反対運動に加わり、若い国会議員ウィルバーフォースを支援し、福音主義の議員の立場から奴隷貿易反対をすべきであると忠告しました。師の教えを受け、ウィルバーフォースは奴隷貿易廃止運動に生涯をささげ、彼の死後1か月後の、1833年ついに奴隷貿易廃止法がイギリスで成立しました。ニュートンの死後26年後のことでした。イギリスの奴隷貿易廃止法はやがて、アメリカにおいてリンカーン大統領による奴隷解放へとつながったのでした。

82歳で天に召されたニュートンは晩年こう書き残しています。

"My memory is nearly gone, but I remember two things, that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."  

            「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」

イザヤ211「その日には目をあげて高ぶる者は低くせられ、おごる者はかがめられ、主のみ高くあげられる

  末尾にアメージング・グレイスの歌詞を記します。

   Amazing grace how sweet the sound That saved a wretch like me I once was lost but now am found  Was blind but now I see

   驚くばかりの神の恵み何と美しい響きであろうか 私のような者までも救ってくださる   道を踏み外しさまよっていた私を 神は救い上げてくださり 今まで見えなかった神の恵みを今は見出すことができる 

   'Twas grace that taught my heart to fear And grace my fears relieved How precious did that grace appear The hour I first believed

  神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し その恐れから 心を解き放ち給う 信じる事を始めたその時の 神の恵みのなんと尊いことか

  Through many dangers toils and snares I have already come 'Tis grace hath brought me safe thus far And grace will lead me home.

  これまで数多くの危機や苦しみ 誘惑があったが 私を救い導きたもうたのは  他でもない神の恵みであった

  The Lord has promised good to me, His Word my hope secures  He will my shield and portion be As long as life endures.

  主は私に約束された 主の御言葉は 私の望みとなった  主は私の盾となり 私の一部となった 命の続く限り

  When we've been there ten thousand years Bright shining as the sun  We've no less days to sing God's praise Than when we'd first begun

  何万年経とうとも太陽のように光り輝き  最初に歌い始めたとき以上に神の恵みを歌い 讃え続けることだろう


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