【福音宣教】 安息日に救いを与えてくださる主イエス

2022年9月11日  ルカ14:1-6

今日は牧師室からの礼拝説教の配信です。このような形での礼拝は初めてですが、これも一つのチャレンジです。座ったままでの礼拝説教も将来の予行演習になるかもしれませんね。さて、イエス様は、安息日に、律法の専門家であるパリサイ派の指導者の家で開かれた食事会に招待されました。これで3度目になります。もちろん彼らの魂胆は、イエス様のメッセージに謙虚に耳を傾けるためではなく、イエス様を攻撃する材料を見つけ出すためでした。ですから「じっとイエスを見つめていた」(1)とあります。

イエス様の正面には、水腫を患っていた病人が座っていました。水腫というのは大量のリンパ液が身体中のあちこちにたまり、手足がむくみ、腎臓・心臓・肺にも水がたまる苦しい病を指します。パリサイ派の偉い指導者の食卓に不治の病と言われていた病人が招かれるはずがありません。彼らの魂胆が透けて見えます。イエス様は「安息日に病気を治すことは正しいことか悪いことか」(3)とパリサイ人たちに問いかけ、彼らが黙っていると、水腫の人に手を伸ばし彼を抱いて、病を癒されました。さらに「あなたがたの息子や大切な牛が井戸に落ちたのに安息日だからと言って放置するだろうか。すぐに助けるではないか」(5)と問いかけると彼らは何も反論できませんでした。

安息日であっても緊急事態時には人を救助したり、治療したりすることは許されていました。問題は、水腫の人が長年、目の前で悩み苦しんでいても、それは非常事態でも緊急事態でもなく、安息日以外の日に治してもらえばいいこと、つまり他人事だったのです。「愛の反対語は憎しみではなく、無関心です」とマザーテレサが言いましたが、彼らは律法に関心があっても、そこにいる病める人には何の関心も示さなかったのでした。イエス様の愛のまなざしは、病気ではなく病人、病める「人」に注がれていました。

. そもそも安息日とはなんでしょう。

安息日という言葉は、聖書を理解するうえで重要なキーワードになります。

安息日とは、「神が天地を6日間で創造して7日目( Sabbath サバット) に、すべての業を休まれ、この日を祝福し、聖であるとされた」(創21-3)という記述にもとづいています。ユダヤ教では土曜日 (金曜の日没から土曜日の日没まで)を指します。

安息日の第一の目的は、創造主なる神を覚える日です。礼拝をささげる日です。この世界は神によって創造され、神の御こころと御手の中ですべてが導かれています。世界の中心は人間ではなく、創造主であるという世界観に立脚することを意味しています。ユダヤ教の指導者(ラビ)ヨセフ・ブルックは朝日新聞のインタビューに答えています。「もし、あなたがトヨタで車を買って調子が悪くなれば、GMや町の工場ではなく、やはりトヨタの整備工場に持っていくでしょう? 人間を造りたもうた神が定めたのが安息日。ならば、その日に体と精神を休めるのが最善なのです」と。「初めに神が天地を創造された」、新しい人生はこの認識から始まります。自然科学は、創造主の叡智と驚くべき全能の御業を「数学」という文字で読み解こうと願った研究者によって発展してきたと言われています。

・安息日の第二の目的は、すべての人間的な業を休める日です。

出エジプト記31:14には「あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、【主】の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない」と記されています。安息日に礼拝をささげなくても殺されはしませんが、休まず仕事をする者はかならず殺されなければならないと定められています。ですから奴隷を多く雇っている事業主たちは、すべての奴隷たちにも平等に週に一度は必ず安息日に休養を与えなければなりませんでした。心身を休めることで却って、生産性を高めることができるからです。

バブル全盛の1988年に“世界を舞台に活躍する企業戦士”のための栄養ドリンク剤のリゲインのCMソング「24時間戦えますか!」が大流行しました。今、そんな働き方をしていれば、ブラック企業と呼ばれ、労基署のお叱りを受けるか、過労死裁判に持ち込まれることでしょう。働くこと=高収入を得ること、つまりこの世の富に仕える者は、富が偶像となり、真の神を忘れてしまうことへの戒めとなっているのです。イエス様は「神と富に兼ね仕えることができない」(ルカ1613)と言われました。先ほどのラビ・ヨセフは「ユダヤ人が安息日を守ってきたのではない。安息日がユダヤ人を守ってきた。そんな格言もあるのです」とも語っています。

この言葉は、クリスチャンである私たちにとっても意義深い真理だと思います。「クリスチャンだから主日礼拝を守らなくてはならないのではなく、主日礼拝がクリスチャンを守ってるのだ」と。イエス様は「私は安息日の主である」(ルカ65)と宣言されました。ですから、安息日・私たちにとっての主日礼拝を捧げる霊的な習慣がクリスチャンを守り、育むのです。主日礼拝ごとに、復活されたキリストが臨在してくださり、内なる人といのちを強めてくださるのです。安息日の主が、私たちを招いてくださっているのです。

Ⅱ 安息日にふさわしいこと

イエス様は安息日に3度、癒しの業をされたことをルカは記録しています。

安息日は、神を礼拝する日であり、神を礼拝することによって魂の救いと平安を得ることができます。また安息日は労働を休む日であり、休むことで身体の癒しと回復が与えられます。深堀すれば、人間的な肉の業や自我の努力をやめることで、かえって神に委ねることを学び、キリストに信頼することを学ぶことができると言えます。祈りが何の役に立つのか、もっともっとなにくそと頑張らなければならないと、自分自身に集中してしまえばしまうほど、神様の存在がピンぼけしてしまい、神から離れてしまうことになります。

・イエス様はナザレの会堂で安息日に説教の奉仕を依頼された時、手渡されたイザヤ書から、「囚-われ人に赦免を、盲人には目の開かれることを、虐げられている人々を自由にする」(ルカ418-19)と救い主としての使命を公に宣言されました。「主の恵み」とは、赦しであり、心の目が開かれることであり、解放です。安息日に手の不自由な人(ルカ66)を癒し、18年間も腰の変形症で苦しんでいた女性(ルカ1310)の病を癒し、同時に魂の救いへ導き、差別や偏見や因習や、自分はもうだめだ、誰も救ってくれない、役立たずのお荷物にすぎないというような無力感・虚無感・絶望感から解放してくださいました。

この世的には、魂の救いは教会で、身体の癒しは病院でというように分けてしまいます。しかし、魂の救いと身体の癒しをわけてしまうことは聖書的ではありません。イエス様はいつも身体の癒しと魂の救いと社会的な健全な生活を一つに結び合わせて、もたらしてくださいます。安息日に出会った水腫の人に、救いの手を差し伸べ、イエス様の御胸にしっかり抱きよせ、身体的な病を癒し、さらに家に帰して社会生活を回復してくださいました。これが主の恵みです。安息日に起きた神の救いの御業でした。今日でもイエス様は同じことをしてくださいます。私たちも期待して喜びをもって、主の日の朝、イエス様とお会いしましょう。

「主は迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力つける」エゼキエル3416)


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