【福音宣教】 ああエルサレムよ、エルサレムよ

2022年9月4日  ルカ13:31-35

1. ここを離れよ
 
 イエス様はガリラヤ湖のある北部ガリラヤ地方からヨルダン川西岸のペレヤ地方を経て、都エルサレムに向かって旅を続けておられます。おそらくペレヤ地方にまだおられた時、パリサイ人たちがヘロデ・アンティパス王の命を受けて「ここを離れ去って他に行きなさい。ヘロデ王があなたを殺そうとしているから」(31)と、イエス様になかば脅しをかけてきました。というのはガリラヤもペレヤもヘロデ王の治める領地でしたから、厄介者のイエス様を追放したかったのです。気に入らない者、厄介者、めんどくさい者はとっとと追い出して、縁を切りたい、関わりたくないというのはどの時代であれ人間の常です。

  しかしイエス様はなんら恐れることなく、たじろぐことなくヘロデ王を「狐」(32)呼ばわりされ、今日も明日も三日目も悪霊を追い出し、病人を癒し、人々を神の国に招き続けると言い放ちました。狐は当時、「小心者、狡猾な動物」の代表でしたから、ヘロデ王をイエス様は狐同然の存在とみなし、まったく意に介しておられませんでした。人の目を気にしたり、人のことばを取り込みすぎたり、強い発言力を持つ者の勢いに押し切られていては、信仰の道は歩めません。人を恐れるのではなく、神から与えられた御心の道すなわち十字架の贖いの死に向かって歩まれるイエス様の姿勢から学びたいものです。誰が何を言おうと、私は私、自分の信じる道を、自分を信じイエス様を信じて歩き続けましょう。

この世は「ここを離れてくれ」と、イエス様を締め出そう、追い出そうとします。信仰そのものを、宗教そのものを邪魔者扱いにします。しかし、イエス様から離れては癒しも、救いも得ることは決してできません。ヨハネ155こそ、幸いな人生の真理です。「わたしはぶどうの樹であなたがたは枝です。わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」

試練や困難を通してサタンも「イエスのもとから離れよ」、イエスを信じても何もいいことなどないじゃないかと激しく揺さぶってきます。欺かれてはなりません。イエスキリストにつながっていてこそ、実を結ぶことができるのです。イエス様を通して神のことばを聴く者こそ、水路に植わった木のように決して枯れることなく実を結ぶことができるのです(詩篇11-2)。

漫画家の水木しげる氏が印象深い短編漫画を残しています。ある侍の子が立身出世を願い、ガリ勉に励み、出仕してからは仕事の虫となり働き、貯蓄に励みました。人生50年と謡われた時代です。やがて病に倒れ床に伏します。臨終の場で、「俺は幸せだったのか」と問いかけた時、看病していた奥方が言いました。「あなたは幸せになる準備をされましたが、幸せを味うことをされませんでした」と。

信仰生活とはキリストと共に生きる人生であり、キリストにあって神を喜び、神の恵みを味わう日々を生きることそのものです。

2. ああ、エルサエムよ

 イエス様は、神の都と呼ばれたエルサレムを思い、嘆き悲しんでおられます。ユダヤ人にとってエルサレムは神が住まわれる都であり、荘厳な神殿が建築され、神の民が礼拝を捧げる聖なる場所でした。エルサレムに近づき都をご覧になったときもイエス様は都のために涙を流されました(ルカ1941)。2つの理由があります。

第一は、エルサレムのカルバリの丘はイエス様にとっての地上における旅の終わりの場、父の御こころに従って歩む最終ゴールであったからです。神の御子イエス様は「生きるために生まれた」のではありません。父なる神様の永遠のご計画のなかで、十字架にかかって死ぬために人となってお生まれになったのです。いよいよその時が近づいて来ました。イエス様にとってエルサレムは、十字架の苦難と共に神の栄光が輝く場でもあったのです。

第二は、エルサレムの都と神殿が破壊され、ユダヤ民族が滅びることを知っておられたからです。神が住まわれる神の都エルサレムと神殿が破壊され、滅ぼされ、荒れ果ててしまうことなど誰ひとり、想像すらできませんでした。永遠の都と信じられていたからです。ところがイエス様が十字架で死なれておよそ40年後のAD70年、度重なるユダヤ人の反乱に業を煮やした、ローマ皇帝ティトス率いるローマ軍によってエルサレムは包囲され、4年の攻防の末、ついに陥落しました。神殿は完全に破壊され、更地にされ畑にされました。かろうじて残ったのは城壁の一部である「嘆きの壁」の部分だけでした。100万人の住民が虐殺され、捕虜として連れ去られ、神殿の金銀宝物は略奪され、ローマの円形闘技場の建設資金として使われたと言われています。イエス様の嘆きはまさに不信仰なユダヤ民族そのものに対する悲しみであり、涙であったのです。

ヨハネ1:10-12に記されている神の慈しみの心を理解できない不信仰な民に対する悲しみでもあったのです。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

3. めんどりがひなを御翼に覆うように

あらためてイエス様は神の御こころを美しい実例で語りかけています。「私はめんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたか」(34)。この記述は、ご自分の民に対する神の美しい保護を表しています。御翼は神の守りのしるしでした。旧約聖書においてこの表現は繰り返し用いられています。

「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください」(詩篇178目を守るまぶたの筋肉はどの筋肉よりも敏速に素早く反応し、ゴミやほこりから目が傷つかないように守ります。そのような速やかな守りの手が緊急時には伸ばされ、愛する者を守り、救い出します。

「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(詩篇367

「まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。」(詩篇613-4 祈りと感謝と賛美をささげる礼拝の場もまた、身を避ける御翼の陰といえます。

イエス様は人々を悔い改めへ招き、十字架の血汐をもって罪を赦し、復活のいのちをもって永遠の御国の民としてくださり、神の恵みの御翼の下に招き入れようとされています。

不信仰な歩みであったとしても、それでもなお、主イエスは弱き我々を悔い改めへ導きつづけ、確かな神の守りと慈しみの中で、私たちの歩みを日々支えてくださるのです。


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