【福音宣教】 御国への招き 東からも西からも

2022年8月28日  ルカ13:28-30

先週は神の国はからし種のように大きく成長することを学びました。さらに、神の国はパン種(イースト菌)のように美味しいパンを作りだすことを学びました。それはパン種を混ぜて良く練った小麦粉をオーブンで焼けばふっくらと美味しい味と香りのパンにかわるように、キリストを信じた人々と共同体である教会が、キリストの愛をかもちだす存在になっていくことを学びました。聖書的な表現をすれば、キリストの御霊を宿すクリスチャンはキリストの手紙であり、キリストの香りをはなす存在へと変えられていくことができることを意味しています。

今日の箇所には、神の国はいる人は多いのか少ないのか、そもそもどのような人が神の国に入れるのかという質問に対するイエス様の答えが記されています。

1. 世界中から神の国の民は呼び集められる

結論から言えば、29節にあるように、「東からも西からも、南からも北からも、人々が神の国で祝宴の席に着くであろう」と言われています。つまり世界中から人々が救われ神の国に入ることができるのです。約束の天の御国を受け継ぐ祝福の民であるアブラハムの子たちが、国籍、民族、言葉や文化の違いを超えて、世界中から、神の国の祝宴に呼び集められるという約束が語られています。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラ328

さらに、30節では、「後のものが先になり、先のもので後のものになるものがある」とも言われています。まるで、抜きつ抜かれつ順番を争う競争のようなイメージを持ってしまうかもしれませんがそれは間違いです。先のものとは血統的にアブラハムの子孫であるユダヤ民族を指します。後のものとは彼らが異邦人と呼び差別や偏見の対象としていた諸民族を指します。神の恵みと祝福は最初にユダヤ人に与えられましたが、彼らは頑なに神に背き、不信仰と不従順を繰り返し、預言者たちのことばに耳を傾けず、ついには神が遣わされた御子キリストまで拒んでしまいました。そこで、神は異邦人たちに恵みの扉を開かれ、パウロを中心とした宣教師たちを通してロマ帝国の各地に福音を宣べつたえさせ、イエスをキリストと信じる多くの異邦人を神の国に招かれました。

では、最初に招かれたユダヤ民族は完全に見捨てられ切り捨てられたかといえば決してそうではありません。「神の召しと賜物は変わることがありません」(ロマ1129)、神の愛とあわれみは不変です。神の約束は永遠の約束です。もしそうでなければ私たちは神の中に永遠の確かさと安らぎを見出せなくなります。すべてが移り変わる空虚な世界になってしまいます。エペソ215ではユダヤ人と異邦人を「新しい一人の人としてつくりあげ平和を実現される」との終末における約束が記されています。それゆえ私たちは神に愛と約束の中に身を委ねることができるのです。

2. 神の御国に入る条件は信仰

では、誰が神の国に入ることができるのでしょう。答えは明白です。「信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハネ316 36)「イエスキリスト信じる信仰によって義とされる」(ロマ322 ガラ216)、「罪の支払う報酬は死です。しかし神の賜物はキリストイエスにある永遠のいのちです」(ロマ623)。と記されています。他の条件はありません。こい言い切っていることが、福音の強さです。これを信じないで他になにを信じるというのでしょう。数々の良い行いでしょうか。人間的な立派さでしょうか。地位や財産や名誉や学歴でしょうか。そんなものをいくら積み上げても、神の国に入る役には立ちません。あたかも、はしごで月まで行こうとするようなものです。

3. ではなぜ、「狭い戸口から入るため格闘せよ(努めよ)」(24)などとイエス様は言われるのでしょう。イエス様は「狭い道、狭い門」から入れとも言われています。狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13-14)。 誰にでも扉は開かれ、条件は信仰のみということばと矛盾しているのではと感じる方もおられることでしょう。
理由は2つです。

第一は、すべての人に救いの門は開かれているが、時が制限されているからです。

「主人が立って戸を閉じてしまってから」(25)では遅いからです。旧約聖書で罪と悪が世に満ち満ちていた時、ノアに神は箱舟を造るように命じました。洪水が押し寄せ、罪の世が滅び去るとノアは説教し、箱舟に入るように招き続けましたが、誰も受け入れませんでした。ノアの箱舟造りを愚かなこととあざ笑いました。しかし箱舟が完成して7日後、大雨と洪水が押し寄せた時、箱舟の扉は、見えざる神の手によって閉じられました。「主は後ろの戸を閉ざされた」(創716)と聖書は記しています。洪水よりも、戸が閉じられてしまったことの方がはるかに、恐ろしい裁きだと私は思います。内側に鍵があればノアが戸を開くことができたかもしれませんが、ノアにはその権限が与えられていませんでした。神の国の扉は未来永劫、開かれているわけではありません。終わりの時があります。私たちの人生に終わりの時があるように、古い世界は滅び、新しい神の国が到来する終末の時を迎えます。「そのうちにという汽車は遅かったという終着駅に着く」という諺を心に留めましょう。

第二は、キリストに近づくだけではなく、信じ受け入れる必要があるからです

「あなたと一緒に飲み食いしました」(26)、「教えを聞きました」(26)というように、イエス様の周辺をうろつくだけではいけません。教会に出入りし、クリスチャンと仲良くなり、クリスチャンは良い人が多いなと感心し、聖書の教えも悪くはないな・・と思いつつ、そこで止まってしまう人が多いのです。そこから一歩踏み出すか否かが、この世と神の国の境界線となります。でもその一歩がなかなか難しいのです、ためらいや躊躇や不安が伴うからです。まるで不登校の子どもが、玄関先で立ち止まって固まり、玄関の先へ踏み出せないのと似ています。玄関を開けて一歩踏み出せば、学校までの道は近く、待っている友達と遊んで愉しく帰ってくることができるケースが多いと言われています。もちろんいじめなどの要因がない場合ですが・・。その時、「無理しないでやめといたら」と親が引きとめれば、「その一歩」を回避してしまう行動が強化され固定してしまう可能性が高くなるといわれています。つまり「信仰によるこの一歩」が「まさに狭き門」「細い道」となっているといえます。

聖書が用いる、「努力せよ」(現在命令形)とは「聖書に信頼し、キリストに信頼する」ことを意味します。聖書のことばと約束を信じ、人生の土台、人生の羅針盤、人生の地図とすることです。神の御子、救い主キリストを信頼し委ねることです。このかたは永遠なる神であり、人生を共に歩いてくださる生ける神です。

クリスチャンの努力とは、「信じれられないときになお信じ、信頼しきれないときになお信頼し、委ねきれないときになお委ねきっていく」ことです。

聖霊の御助けの中で、どんな事情境遇の中におかれても、「それでも」信仰によって歩み続けていくことを指しています。それが、神の御国に国籍を持つ者たちの日々の歩みなのです。

私たちの信仰は、「それでも」信じていく歩みです。


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