【福音宣教】 福音はは因果応報の連鎖を断ち切る】

2022年8月7日  ルカ13:1-9

1. 最新ニュース
イエス様のもとに新しいニュースが届きました。ガリラヤ地方の住民がエルサレム神殿で礼拝をさげるために犠牲の動物を連れて200kmの旅をしてやってきたのに、神殿の一角に警備のために駐屯していたローマ総督ピラトの兵隊に切り殺された。彼らが連れて来た羊か牛の動物も一緒に殺されたという悲惨なニュースでした。しばらく前にはエルサレムで建設中だったシロアムの塔が突然崩れ落ち多くの死傷者が出ました。18人もの労働者が亡くなったというこれも人々の記憶に新しい大事故が起きました。

2. 人々の反応

人々はこの出来事をどう受け止めていたのでしょう。イエス様の時代に熱心党という武力でローマ帝国の支配からユダヤを解放しようという過激派がいて各地で反乱を引き起こしていましたから、ガリラヤから来た巡礼者たちが間違えられ殺害されたのかもしれません。また、総督ピラトは神殿に納められる税金から様々な公共施設の建築費を調達していましたから、そういう建築現場に雇われて働くユダヤ人は裏切り者とみなされていたようです。だから神の裁きがくだったと考えられた可能性もあります。そのような背景を理解しておくとこの記事の意味がよくわかってきます。2000年前の出来事ですから真相は今となってはわかりません。しかし昔も今も、世の中には、思わぬ悲惨な出来事や事故が起こるものです。納得しがたい理不尽なこともやまほど起こります。何かの意味づけをしないと人間は心の整理がつかないものです。

当時のユダヤ人たちは犠牲となった人々に対して「彼らは神に対して罪を犯したのだから、罰をうけたのだ」と解釈していたようです。「因果応報の考え」が律法学者たちによって民衆に浸透していたからです。神に背いたから、神に不十分だったから、神の罰がくだったのだ。たくさんの犠牲者が出たシロアムの塔の崩落事故で18人が死亡したが、その18人は特別に不信仰な者たちだから罰を受けたのだ。自業自得だという考え方が広がっていたようです。

正しい者には神の報いが、正しくない者には神の裁きがくだると安直に考えるなら、そ不幸な目にあっている人々はみな、不信仰で悪い人間と決めつけられ、当然の報いを受けているのだということになりかねません。そうであれば、悲惨な事故や災害で心傷ついている人々に2重の痛みを与えてしまうことになり決して許されることではありません。

阪神淡路大地震の時、「神の罰がくだったのだ。罪を悔い改めよ」とメッセージを語った牧師がいて非難を浴びました。私たち日本人も因果応報思想に陥りやすい精神構造をもっています。癌にかかるのは頑固だから、肺がんにかかる人は「はい」と素直に生きていないから病気になるなどと教える新興宗教もあるそうです。因果応報論は、不安に付け込み脅すという「だましのテクニック」の常套手段としてしばしば用いられます。

3. イエスの教え

イエス様は、「そうではない」(5)ときっぱり否定されました。「不幸な出来事、思わぬ悲惨な事件や事故や災害」は、神の裁きでも罰でもないと因果応報論を否定しました。

生まれながらの盲目の人を見て、弟子たちでさえ「誰が罪を犯したのですか。本人それとも両親ですか」とイエス様に質問した時にも、毅然とした態度でイエス様は否定し、「神の業が現れるため」(ヨハネ92)と神の愛を語りました。イエス様は因果応報の連鎖を断ち切られたのです。神に見放された人ではなく、反対に、むしろ神に愛され神の栄光を現すことができる人であると、世の人々の考えを逆転させました。

イエス様はいつも、根本的な問題に目を向けさせようとします。

「あなたがたも悔い改めなければ同じように滅びる」(35)と指摘しました。この場合の悔い改めとは、「罪の懺悔」と言われるような個々の罪の告白を意味する以上に、「生き方の根本的な方向転換」を意味します。ギリシャ語でメタアノイアと言いますが、神を無視し、神を否定し、人間の知恵や力だけで生きていこうとする「神抜きの人生」を生きることからの方向転換を意味します。神抜きの人生とは、世界の中心は自分中心とばかりにおごり高ぶり、周囲の人を力で支配したり、見下したり、平気で踏みつけたり、軽蔑したりさげすんだり、「弱肉強食」が人生の価値だと信じて生きている生き方を意味しています。

偉大な数学者パスカルは「人間の中には神様のかたちをした空洞がある。その空洞はただ神様だけが満たすことができる」と言いました。神の存在を忘れ、神を締め出し、自己中心に生きるそんな、生まれながらの古い生き方には、どこか「虚しさ」「空虚感」と「孤独」が漂う、心の隙間風が吹くのです。これは人生の真理です。聖書ではエリコ一の金持ちザアカイの救いが当てはまります。

4. 忍耐して待たれる愛の神

さらにイエス様は一つのたとえ話をされました。たいへん有名なたとえ話です。

イチジクの木が葉っぱばかり生茂らせ、実を結ばない。3年経っても実をむすばない。桃栗3年柿八年、イチジクは半年と言われています。6回待っても実がならない。農園の主は「こんな役立たずのイチジクはただちに切り倒してしまえ」としもべに強く命じました。ところがしもべは「来年まで待ってください」と嘆願しました。切り倒す意志は変わりませんが、しもべのとりなしで主人は1年まつことを承知しました。

この譬えはあきらかに救い主イエスキリストの十字架の罪の赦しによる執り成しをあらわしています。イエス様は十字架にかかり「父よ、彼らを赦してください」と執り成しの祈りをささげ、罪の刑罰を身代わりとなって受けいのちを捨ててくださいました。ひとり子を身代わりに死なせてまで父は罪人を愛してくださり、忍耐してくださいました。

父なる神様はこのように、「一人も滅びることなく永遠のいのちを持つように」(ヨハネ316)、忍耐の限りを尽くしてくださっています。父の御こころは、救い主キリストを信じた一人一人が、永遠のいのちを得、神の国の民となることです。この究極のゴールを見ておられるのです。

あなたの究極のゴールはどこにありますか、「立派な葬儀やお墓」でしょうか。では、そこに何を携えていくのでしょうか。それともあなたの究極のゴールは「神の国に国籍を持ち、永遠のいのちと永遠の国に生きる」ことでしょうか。

この地上では確かに納得がいかないこと、理不尽なこと、幸不幸や貧富の差、埋めがたい偏見や差別の壁が存在しています。こころある人々がさまざまなボランティア活動をしながら少しでも助けになればと惜しみなく努力をしています。まさに一隅を照らす尊い働きであり、教会も精いっぱいの協力をさせていただいています。

正しい人が正しい報いを得る理想的世界ではないことも現実です。けれどもそれでも神はおられすべてを導いておられます。神の国を実現してくださいます。そのために御子イエスキリストを遣わし、悩み多い現実の人生を共に喜び共に涙しながら歩いてくださいます。その御子の励ましの声を聞きながら、私たちは生きていくのです。信仰は決して難しいものではありません。単純なものです。まことの神を信じ、救い主キリストを信じることのみです。そして因果応報の連鎖から解放され、希望をもって生きることです。

「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気をだしなさい」(ヨハネ1633

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