【福音宣教】 時を見分けよう

2022年7月31日  ルカ12:54-59

12章から始まった民衆への教えの締めくくりとしてイエス様は、「今のこの時代を見分けなさい」(56)と呼びかけました。

あなたがたは西の雲は雨、南風は猛暑と、雲や風の様子から天候の変化を予想できる(54.55)のに、なぜこの時を見分けられないのですかと問いかけています。 さらに、受け身になってばかりでどうして自分から進んで、主体的に正しい(義)判断をしようとしないのかと問いかけています。

1. 時を見分ける

現代では気象衛星の打ち上げで宇宙空間から雲を撮影し、コンピューターでデータを収集分析し、気象予報技術は大きく飛躍し、30分後の天気さえ正確に予報できます。地球全体の温暖化による異常気象の予測も可能になっています。世界情勢の変動から、経済の変動、金利や株価や物価指数も予想できます。しかしながら、世は神のご意志、神のご計画を知ることはできていません。関心もありません。しかし世界の歴史は神の人類に対する救いの歴史であり、神の壮大な救いのご計画の中で運ばれていると私たちは信じています。イエス様が「今の時を見分けられないのか」と言われた、今の「時」はギリシャ語でカイロスが用いられています。この言葉は「神の時」という特別な意味をもっています。時計が刻む一般的な時間にはクロノスという言葉が使われます。人間の歴史の流れの中で、特別な神の時があり、そのタイミングで新しい画期的な出来事が起こり、神の全人類に対するご計画が大きく前進していきます。現代人は1秒でも早くとクロノスを求めますが、聖書の民は神が定められたカイロス、「神の時」を尊びました。

旧約聖書の伝道の書2章では、すべてのわざには時があると教えています。ですから彼らは神の時を知ろうとしました。祈りの中で神の時の導きを待ちました。また神の時に生きることを願いました。約束の地でのイスラエル人の最初の戦いは難攻不落のエリコの町でした。彼らは城壁の周りを一日1回6日間周り、七日目には七度回り、祭司が角笛を吹き鳴らし、民はときの声をあげました。その時、城壁は崩れ落ちました(ヨシュア61-5)。

新約時代、神の時が満ちて神の独り子がこの地に遣わされ、おとめマリアより御子は誕生しました。御子イエスは「時が満ち、神の国は近くなった」(動詞は完了形)と宣言され、宣教の生涯に立ち上がりました。聖書が示す「大時計」によれば、今は終わりの時代に属し、神の国がいよいよ到来する終末の時を迎えています。でも世の中の多くの人々は、いまだに神の存在を認めず、神の時を知ろうともしません。関心がないからです。

2. 神と和解する

イエス様は58―59節で具体的な例を挙げています。裁判で訴えられた時、しかも圧倒的に不利な場合、無理に裁判に持ち込んで争うよりは、熱心に相手と和解するほうが賢明であるという話です。裁判になれば敗訴して有罪が確定し、投獄されてしまう。そうなれば最後の1レプタを支払い切るまでは牢から出られないであろうという実際的現実的な話です。今日でも民事裁判の場合は、裁判官による判決に待ちこむ前に、両者による和解が検討される場合が多くあると聞いています。

神の時が満ち、神の救いのご計画がついに完結する時は、御国が完成する時ですが、一方では神の永遠の審判がくだる時です。その刑罰はどれほど重いことでしょうか。燃え盛る炎の中で苦しむと地獄の様子が描写されています。神学的には永遠に苦しみ続ける刑罰の世界というよりは消滅を意味すると解釈する学者もいます。

韓国映画で、死神が人間を助けたために捕らえられ刑罰を受けることになります。ところがこの死神は最も重い刑罰を願いでました。それは自分の存在が完全に消えて消滅すること、抹消されてしまう刑罰です。死神どもが震え上がったという刑罰です。

世の中には自分なんか生きていても仕方がない、何の値打ちも価値もないと考えてしまう心傷ついた人がいます。自分の存在が消えてしまうことは同時に自分から生まれた子供たちも全員消滅すること、子供から生まれた孫たちも、遠い子孫たちもすべてが存在しなくなること。自分とかかわりのあったすべての人の記憶からも完全に消え去ってしまうことを意味します。自分が存在したすべての証しや痕跡が跡かたなく消滅してしまうことです。
それは子供たちの未来の夢も幸せもすべてを奪ってしまうことでもあります。だから今、まだチャンスが与えられている間に、神と和解しなさい。罪の裁きではなく赦しを得て神と和解しなさいと奨められているのです。イエス様の意図がこれではっきりしましたね。

旧約聖書において「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。」(ヨブ22:21)と呼びかけられています。預言者アモスは「あなたは、あなたの神にあう備えをしなさい」(アモス412)と迫っています。

キリスト教の救いの教えは「福音」と呼ばれます。それは同時に「和解の福音」(ロマ510)とも呼ばれます。神はいのちを滅ぼす審判者・裁き主である前に、いのちを与えてくださった創造主であり、怒りの神ではなく愛の神です。罪を即座に裁く苛酷なお方ではなく、罪を憎まれるが罪人を愛し、長く忍耐してくださり、罪を悔い改めて神のもとに立ち帰って来ることを待ち続けてくださっています。父なる神は世界中のどんな父親よりも忍耐強く、家出をしたような息子・娘たちがふたたび戻って来ることを待っていてくださるお方です(ルカ15:12~)。拒絶し断罪する神ではなく、招き和解してくださる神なのです。

罪の赦しと神との和解を与え、子として神の国に迎え入れることを神の救済、神の救いのご計画と言います。そのために神の御子はこの世界に遣わされ、十字架で身代わりに罪を背負って死なれ罪を償い、復活されて永遠のいのちへの扉を開いてくださいました。このように神がすべてを整えご用意してくださったのでした。

それゆえ、あなたにできることはただ一つだけです。神が遣わされた御子イエスをあなたの救い主として信じること、心に迎えること、イエスの名によってバプテスマを受けることです。そうすれば罪の完全な赦しと永遠のいのちが神からの贈り物として与えられます。これが福音です。キリスト教がよって立つ救いの真理です。

私はカウンセラーとして「心の癒し」と「人と人との和解」を語りますが、牧師として「魂の救い」と「神との和解」をなによりも大切なこととして語ります。魂の永遠の救いを得て、神と和解してこそ、心の癒しも導かれ、人と人との和解そして自分自身との和解も深められていくからです。自分で自分を受け入れられない、自分が自分を愛せない、認められないことは、心が戦場や不毛の砂漠になっていることであり、とてもつらいことです。外からは見えないだけに理解してもらえずいっそう孤独が深まってしまいます。
何よりも最優先すべき必要なことは、イエス様を通して父なる神のもとに立ち帰り、父なる神と和解することです。

裁判所に行く前に和解するのが賢明な対応であるように、あなたの人生の途上で、神と和解することこそが知恵ある賢明な人生態度といえます。なぜなら人生には総決算の日があるのですから。
招きのことばを聴きましょう。「今は恵みの時(カイロス)、今は救いの日」(2コリ
62)と。

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