【福音宣教】 目を覚ましていなさい

2022年7月17日  ルカ12:35-48

12章に入りイエス様は集まってきた多くの群衆に向かって、今日の心配や明日の心配で心を騒がせてはならない。あなたがたは空の鳥よりも、野の花よりも尊い存在なのだから、思い煩いを神に委ねなさいと語りました。そして神の国という究極のゴール(31)に希望をつなぎ、追い求めなさいと勧めました。地上のものは過ぎ行くのだから、大きな蔵を建てて蓄えようとせず、天に宝を積みなさいと、何が人生の幸福かという価値観の転換を呼びかけました。マイクロソフトの創設者ビル・ゲイツ氏は「私は事業の成功でもう十分幸せを味わった。与えられた富を他の必要とする人々とわかちあうことが幸せなのです」と語っています。天に宝を積むひとつのあり方と言えます。さらにイエス様は「父なる神は喜んで神の国をあなたがたにお与えになります」(32)と、お約束してくださいました。聖書は神の国が完成するために「キリストがもう一度この世界に来られる」、キリストの再臨という重要な真理を告げています。旧約聖書が預言していたメシアの誕生、苦難のメシアの十字架の死と復活、神の霊が注がれるペンテコステ、これらはすべて成就しました。残されている預言は「イエス様が王の王、主の主として再び来られるというキリストの再臨」(マタイ2818 使徒13-11)です。イエス様は今日の箇所で、3つのたとえ話を通して、この再臨の予告をされています。

1. 婚礼から帰る主人を待つしもべのたとえ(35-38                                                                                                                                                2. 突然押し入る強盗に備えるしもべのたとえ(39
 3.
 遠くに旅たつ主人から家の管理を託された忠実なしもべのたとえ(42-48)です。

1. 目を覚ましていなさい

3つのたとえ話に共通していることは「目を覚まして待っていなさい」というメッセージです。

ユダヤの国の婚礼は数日続くこともあり、招かれた主人が出席した場合、真夜中に帰ってくるか明け方近くに帰ってくるか帰宅時間が読めないそうです。そのため、しもべたちは夜になっても仕事着を着たまま、帯を締めて灯りをともして主人の帰宅を待って迎えました。ご主人はそのような忠実なしもべたちの様子に感動し、しもべたちのために料理を用意し、食卓に着かせ、自らが給仕をしたという、これは現実にはまったくありえない内容のたとえ話です。しかし、キリストの御再臨の時には、信仰という灯りをともし続け、待ち望んでいた者たちを、「天国の食卓に着かせてくださる」(救いの完成と喜び)という、考えられないような大きな恵みが用意されているのです。
キリスト教信仰の大きな特徴は、ご利益の追求ではなく、「キリストが再び来られる日を待つ」待望にあります。「目覚める」の反対語は「眠りこける」です。再臨の真理をお蔵入りさせ、眠らせてはいけません。新約聖書の結びの祈りは「主よ、来てください」(黙
2220)です。再臨のメッセージを語る教会は少ないそうですが、神の救いのご計画の全貌をしっかりと語り続ける責任が託されています。目を覚まして、主が来られる日を待ち望みましょう。

2. 思いがけない時に帰ってくる

強盗が忍び込んでくる時間がわかっていれば、当然ながら家の主人としもべたちは十分に警戒し被害を受けないようにするはずです。しかし強盗が時間を予告したうえでやってくることなどはありえません。この譬えを通して、「キリストが再び来られる時」は誰にもわからない。御使いも御子も知らない。ただ父だけが知っています(マタイ2436)。この2番目のたとえでは、むしろ「思いがけない時」(40)「思いがけない日」(46)に帰って来ることが強調されています。

だから目を覚まして用心していなさいと気を引き締めるようにイエス様は警告しています。当時、大金持ちたちは床の下の土の中や壁の内側に財宝を隠したそうです。留守中に強盗が押し入ったなら、いたるところで床がはがされ、壁はあちこち穴だらけにされ、めちゃめちゃに壊され、荒らされ放題。被害は深刻でした。大事な宝は奪われ、家は壊されショックと嘆きは深刻でした。
キリストの再臨は教会にとっては救いの完成の時、おおいなる喜びの時ですが、この世にとっては神の審判の時ですから悲惨な結果となります。第二ペテロ
310には「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」と記されています。私たちは過去に起きた戦争の悲惨さを古い写真やフィルムで見ることができますが、なかなか実感を持つことができません。しかしウクライナで今起きているリアルな映像を見れば、その悲惨さ無残さに心が痛みます。世の終わりの時の悲劇は、私たちの想像をはるかに超えた悲惨なものでしょう。だからこそ、「キリストを信じて救いを受けなさい」と、福音を伝える思いを熱くしましょう。

3. 全財産を任せられる忠実なしもべ

三番目のたとえです。主人が遠方に旅立つとき、家のしもべたちの上に侍従長を立て、人や家財を管理をするように任命します。ここで良い忠実な賢いしもべと、手をぬく不忠実なしもべとがはっきりと別れます。主人の目が届かないわけですから、本性が現れ、地金が出てきて、偉そうにふるまい、好きかったな横暴なふるまいを始めます。贅沢三昧を始めます。ところが忠実なしもべは、主人がいてもいなくてもその奉公ぶりに裏表、陰ひなたがありません。忠実に、しもべたちを世話し、家財を管理し、主人の帰りをみんなで待ち望みます。主人が思いがけない時に帰って来て、不忠実なしもべの有様を見た時、激怒し「きびしく罰します」(46)。この言葉には「八つ裂きにする」というほどの厳しい意味があるそうです。これは代々の教会やそこを委ねられた長老・監督・牧師たちへの忠告を指します。イエス様はペテロに「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ2115-16)と信徒たちを彼に託されました。その信徒たちをないがしろにし、食い物にし、虐げるならば、その横暴な態度はキリストの悲しみとなり、怒りの対象となります。キリスト教も教会も過去2000年間の歴史の中で完全ではなく、多くの失敗や過ちや罪を犯し続けてきました。支配欲や強欲をコントロールできなかったからです。キリストの羊を託された人々は、いっそう、謙遜さと愛を学びつつ、しもべの中のしもべとして仕えることが求められるのです。教会員一人一人は主が愛していられるかけがえのない大切な羊、小羊だからです。

まとめ

「多く与えられた者は多く求められる」(48)とイエス様はメッセージを締めくくりました。

私たちにはキリストを通して、永遠のいのちと神の国が無代価で与えられました。受け取るに値しない者が受け取ることができたのですから、感謝以外に何があるというのでしょう。

多く与えられているから、喜びをもって多くを与えることができるのです。受けるよりは与えることが幸いであるという天国の法則に生きることができるのです。無代価で与えられたのですから、見返りを求めず無代価で与えることが喜びとなるのです。多く赦されたから多く赦すことができる、多く愛されたから多く愛することができるのと同様、「赦さなければならない」「愛さねばならない」という戒律から解き放たれた自由と自発性に基づく赦しと愛が生まれるのです。

忠実な(信仰に生きる)思慮深い(再臨の日を理解している賢い)教会の一員として、主イエスが来られるその日を待ち望みましょう。

「御霊も花嫁も言う。「来てください」」(黙2217

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