【福音宣教】 ペンテコステ礼拝 宣教と愛の御霊

2022年6月5日  使徒2:37-42

今日はクリスマス・イースターと共にキリスト教の3大祝日のひとつであるペンテコステ礼拝の日となっています。2000年前、エルサレムの2階座敷の家にイエス様の母や兄弟、12人の弟子と信徒たち総勢120名ばかりが(114-15)集って祈っていました。その時、イエス様の約束通り、激しい風の音と共に、聖霊が天からくだり、炎のような赤い舌が一人一人の上にとどまりました。聖霊の降臨と呼ばれるできごとです。キリストの復活から50日目(ギリシャ語でペンテコステ)の出来事でした。この出来事にちなんで欧米の教会ではこの日、信徒は何か赤いものを一つ身につけて礼拝に集う習慣があるそうです。聖霊は御霊とも神の霊ともあるいはキリストの御霊とも呼ばれますが、何よりもイエス様がお約束してくださった恵みが成就した日であることから、「約束の御霊」(ガラテヤ314)とも呼ばれます。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。」(ヨハネ1416-17

1. 聖霊の過去・現在・未来の働き

過去・現在・未来という3つの時系列で考えると、聖霊の大きな働きと役割を理解することができます。まず、過去においては、ペンテコステの日にペテロは大胆に群衆に向かって語りかけたところ、ペテロの説教を聴いて心を動かされ多くの群衆が、悔い改めてキリストを信じました。その数は3000人を超え、この日、都エルサレムに「エルサレム教会」が誕生したのです(240-42)。つまり、ペンテコステの日は、歴史的に初代エルサレム教会が創立した記念日と言えます。聖霊は「キリスト教会」の誕生を導きました。

未来においては、やがてキリストが再臨され御国を完成されるとき、すべての民が聖霊に導かれて王の王なるキリストに栄光を帰し、まことの礼拝をキリストにささげることを主導します。「御霊は私の栄光を現します」(ヨハネ1614)とあるように、キリストの栄光を現すお方だからです。

現代においては、聖霊はキリストの福音を宣教する「力の御霊」として今も変わらず働き続けています。さらに、「愛が冷えていく」と預言されている終末の時代に、キリストの愛を地に満たし「和解と平和をつくりだす」愛の御霊として働き続けます。いずれにしろ聖霊は、教会と共に、そして私たちの新しいクリスチャン人生と共にあるのです。私たちの人生の過去現在未来もまた、御霊の御手の中で導かれています。それゆえパウロは「私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」(ガラ523)と、御霊の導きに委ねることを勧めています。

2. 宣教の御霊

ペンテコステの日に御霊を受けた弟子たちが、今まで学んだことも聞いたこともない外国のことばで(使徒28)「神の大きなみわざ」(使徒211)を語ったため、祭りのために諸外国からエルサレムに来ていた巡礼者たちはたいへん驚いたことが記録されています。この出来事は、すべての国々の民にその国のことばでキリストの福音が伝えられていく「世界宣教の扉」が開かれたことを意味します。イエス様の十字架と復活の良き知らせが伝えられていくところ、いつの時代でも、どこの場所であっても、聖霊が豊かに静かに、心の奥深いところに働きかけ、罪人のかたくなな心を揺さぶり、砕き、神の前に膝づかせ、永遠のいのちに至る救いへと導きます。

偉大な宣教師パウロは振り返ってこう述べています。「私のことばと宣教とは説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と力のあらわれでした」(1コリ24)と。

この2年間の間に教会に導かれた方々を思い起こすと、神の御霊のお働きとしか言いようがありません。まるでドラマを見ているかのような不思議な思いにとらわれます。まさに神の御業としかいいようがありません。

「風は思いのままに吹き・・・御霊によって生まれる者もみな、その通りです」(ヨハネ38「主は御霊です。そして主の御霊のある所には自由があります」(2コリン317

コロナもおさまりつつあります。教会にも新しい人が集われるようになることでしょう。ふたたび、御霊のお働きのすばらしさを見させていただきましょう。そして祈りましょう。「主よ、あなたの御霊の通り良き器として私を用いてください」と。「あなたを必要としている人々のもとへ私を導き、出会わせてください」と。

3. 愛の御霊

聖霊によってエルサレム教会が誕生した時の様子が記されています(使徒245-47)。新しく誕生した信仰の共同体の中には、御霊の愛が満ちていました。イエス様の中に満ち満ちていた愛は、「隣人を愛する愛」でした。イエス様の十字架の死は、罪人の私たちを敵としてではなく隣人とみなし、いのちまでも捨ててくださった神の愛‐隣人愛の極みだったといえます。このイエス様の愛は、具体的にエルサレム教会の中で美しく生き生きと展開されていたことがわかります。

エルサレム教会において、愛の御霊が、心を一つにして捧げる礼拝を導き、パンを割きと葡萄酒の配餐(聖餐)と喜びに満ちた愛餐(食事会)、さらには神様への感謝の賛美を導いていたことを学ぶことができます。このように御霊は愛の交わりと一致を教会にもたらすことを喜びとしています。教会とクリスチャンのこころに御霊は働きかけ、御霊の実を結びます。その筆頭は愛です。愛という大きな実の中に喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実さの種が満ちています。そして種がまかれたそれぞれの場所で、それぞれの持ち場で、実を結びます。

教会の庭にも今、次々と植物の実が結びつつあります。ぶどう、いちじく、ブラックベリー、レモン、オリーブ、驚いたことに何と階段の踊り場に植えていたハーブの木の根元に黄色いカボチャの花が咲きました。きっと風か鳥がはこんできたのでしょう。太陽の光と水と土があれば、かぼちゃも花咲くことができるのです。そのように、神の御霊が働かれるところには、おのずと御霊の実が結ばれていきます。ピリピの教会に宛ててパウロはこのように書き送っています。

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」(ピリピ21-2。 御霊の交わりとは、抽象的なものではなく、信徒相互の励まし、慰め、愛情とあわれみを指します。

まとめ

終わりの時代には愛が冷えていくとイエス様は預言されました。「不法がはびこるので、多くの人たちのは冷たくなります」(マタイ24:12)と。戦争、殺戮、破壊、一般市民や子供たちの死といった悲惨な現状を私たちは今、見聞きしています。イエス様のことば通りではないかと実感できます。しかし、闇が濃くなればなるほど光が輝くように、世の中の愛が冷めていけばいくほど、キリストの愛はそのぬくもりをまし加えていきます。そこに私たちの希望があり、御霊はいよいよキリストの愛を注いでくださることでしょう。

今学期の聖書学校は「聖霊のお働き」を、20世紀最大の伝道者と呼ばれたビリー・グラハムの著書からご一緒に学びます。彼は「聖霊」のお働きの重要性を強調しています。序文の冒頭で、カトリック教会の故ヨハネス教皇が、現在最も必要な教理は何かと聴かれた時、法王は「聖霊の教理です」と答えたそうです。スイスの神学者カール・バルト博士の別荘に招かれ休暇を過ごした時のこと、グラハムの同じ質問に対して、バルトは「聖霊です」と即答したそうです。福音の宣教も、教会の豊かな交わりも、御霊が生み出してゆきます。ですから私たちは、こう祈りましょう。「主よ、私を用いてください。私のうちにおられる御霊よ。私を用いてください」と。

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