【福音宣教】 幸いなのはみことばを聴く人です

2022年5月22日  ルカ11:17-23

1. 幸いな人とは

イエス様が「神の指によって悪霊を追い出し、病を癒し、滅びから救いへ導いておられる」様子を見聞きした女性が、イエス様こそ約束された救い主メシアであることを理解し、このような救い主を産んだ母はなんと幸いなことでしょうかと賞賛しました。その時、イエス様は真にほむべきお方はメシアを遣わされた父なる神お一人であり、神が遣わされたメシアのことばを聴く者こそがもっとも幸いな人であると教えました。

この世の人は、「事業に成功し、富を築いた人」を幸いな人と呼ぶかもしれない。「学問に秀でて立派な業績を残し、名声を得た人」を幸いな人と呼ぶかもしれない。アスリートとしてオリンピックで頂点を極めた人を幸いな人と呼ぶかもしれない。生まれ持った美貌によってミスユニバースから女優にまでなった人」を幸いな人と呼ぶかもしれません。そしてそのような息子や娘を産んだ母を「幸いな人」とほめるかもしれません。

しかし聖書は、神のことばを聴いて喜びとする人こそ幸いな人と呼んでいます。神の目からみれば、主の日の朝ごとに礼拝に集い、神に賛美をささげ、感謝の祈りをささげ、みことばを聴く一人一人こそ、「私が愛する、幸いな人たち」なのです。
人生の最後において「自分の人生は何だったんだろう」と嘆くことほど虚しいことはありません。「お墓のない人生をはなかい人生といいます」と墓石屋は営業しますが、「自分の人生は何だったんだろう」嘆くことほどはかない虚しいことはありません。キリストのことばをきいてキリストと共に生きる生涯こそが幸いな人生といえます。

旧約聖書では詩篇1篇では、「水路のそばに植わった木のようだ(2-3)と言われています。砂漠や荒れ野の中にオアシスがあるとその周りの木々は豊かな実を結んでいます。さらに、「時が来ると」と約束されています。実が結ばれることも祝福ですが、その時を「信じて待つ」ことができる者とされていることそのものが祝福ではないでしょうか。世の人は神の時を知りませんし、神の時を信じて信頼して待つことができません。だから自分の力で必死でつかみ取とろうとします。そして多くは失敗します。神様が実を結ばせてくださることを信じ、信頼して、神の約束に生きる者を聖書は幸いな人と呼んでいます。

新約聖書でもイエス様がお約束しておられます。「私にとどまりなさい。私は葡萄の樹であなたがたは枝です(4-5)」そして「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら7)」、祈りがきかれ、主の弟子となって父が栄光を受けられると。主の弟子とは、「主から学ぶ者」という意味であり、生涯、イエス様から学び続ける者をさしています。

2. ヨナのしるし

宣教師パウロは「ギリシャ人は知恵を求め、ユダヤ人はしるしを求める」(1コリ122と民族性を指摘していますが(日本人はご利益を求めるそうです・・)、多くの人々が求めるのは「神のことば」ではなく「神のしるし(奇跡的行為)」です。もし、しるしを求めるというならば、旧約時代に預言者たちによって数多くの奇跡が行われましたが、その中でも「ヨナによる奇跡」に着目すべきであるとイエスは教えました。

紀元前8世紀ごろ、イスラエルの敵であったアッスリア帝国の首都ニネベに行って神のことばを語り、住民を悔い改めと救いに導けとの神から命じられたヨナは、激しく反発し、船に乗って逃亡してしまいました。しかし結果的に船は嵐に遭遇し、ヨナは海に投げ込まれました。3日三晩、大きな魚に飲み込まれ、死んだと思われていたヨナは生きていて、奇跡的に陸地に吐き出され、ニネベの住民を悔い改めに導きました。この奇跡はメシアの十字架の死と復活を象徴しているといえます。つまり、十字架で死なれ、墓に葬られ、よみにくだり、3日後に復活されたキリストこそが、しるしの中のしるしである。つまり復活にまさる奇跡は存在しないのです。だから、しるしを求めるのであれば、やがてエルサレムで現実に起きるキリストの十字架の死と復活の出来事の中に神の御こころと意味を見出せとイエス様は語られたのでした。キリストの復活こそが奇跡の中の頂上です。復活は大文字・TheMiracleと呼ばれます。キリスト教は十字架と復活の事実を土台としています。復活抜きの福音はありえません。ヨナのことばを聴いてニネベの住民が救われたように、神が遣わされたメシアのことばを聴く者は救われます。復活されて神の右に着座されたキリストのことばを聴いて、悔い改め、神に立ち帰るならば永遠のいのちを得ることができるのです。「ヨナにまさる者」がここにいるではないか、とイエス様は強調しておられるのです。

3. ソロモンにまさる者

さらに旧約時代に、もっとも深い知恵のことばを語り、神の義に立った公平な裁きを行う王の中の王と言えばソロモン王でした。彼の名声は世界に広がり、現在のイエメンにあたるシバの国の女王が、ソロモン王の知恵のことばを聞くために、はるばる2000キロもの旅をして訪ねて来たほどでした。この出来事は、やがては異邦人たちも、神の御子キリストのことばを聴くために世界中から集うという意味が込められています。

さらに、今ここに、ソロモン王にまさる者がいる。なぜならソロモンは人間の知恵と知識のことばを語りましたが、神の御子は父なる神のみこころを語ります。ソロモン王以上に、永遠の救いの真理を語ることができる王がいるのです。「誰も私によらなければ父のもとへ行くことができない」と言われた唯一の真理といのちの道(ヨハネ146)を語ることができる者がここにいるのです。まさにイエス様こそ、ヨナにまさる者、ソロモンにまさる者であり、「この方以外にだれによっても救いはない」(使徒412)とペテロが全世界に向かって宣言した真の救い主なのです。

4. 奇跡を見ても一時的だが、神のことばは留まり人生を変える

奇跡を見て感動してもその興奮は一時的です。刺激を求め、新たな奇跡を追い求めることになりかねません。どんなに感動し気分が高揚してもそれは永遠の救いには結びつかない。しかし神のことば聞く者は、神のことばを豊かにこころの中に蓄えつづけ、神の救いのご計画の全体を理解するようになり、悔い改め、救いへと日々導かれます。

では、み言葉を聴く者がなぜ幸いな人と呼ばれるのでしょう。

ペテロは「みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し救いを得るためです」(1ペテロ21-2)と語りました。キリストのことばを通して求道者は救いを得、キリストを信じた信徒はさらに成長し、キリストに似る者へ導かれ、人生が変えられるからです。先ほどのヨハネ15章において、「わたしにとどまりなさい(5)」「私のことばがとどまっているならば(7)」「私の愛の中にとどまりなさい」(8)は三位一体的に結び合っています。3つの別々のことがらではなく、有機的にひとつに結びついています。キリストに留まることはみことばに留まること、みことばにとどまることはキリストの愛にとどまることです。つまり、よみがえられた生けるキリストの臨在がそこには伴うのです。

イエス様は「2-3人、私の名において集まる所には、私もその中にいる」(マタイ18:19-20)と約束してくださいました。宇治バプテスト教会の今年のテーマは「交わりの回復です」。祈りのグループを通しての交わり、聖餐式を囲む交わり、食事を共にする愛餐の交わりの回復を進めてまいります。楽しみな愛餐もただ単に食事を楽しむために行うのではありません。その交わりの中に復活されたキリストが共におられることを喜ぶためです。みことばの学びと祈りと愛の交わりの中に、生きておられる主イエスが臨在され、何よりも私たちは主を喜ぶのです。

ヨナにまさるお方、ソロモンにまさるお方、神の御子主イエスキリストを喜ぶのです。

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