【福音宣教】 神様からの最高の贈り物

2022年5月1日  ルカ11:10-13

イエス様は「祈ることを教えてください」と願い出た弟子たちに、11章で「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは従来のユダヤ教で用いられていた儀式的な祈祷文とは異なるイエス様独自の新しい祈りでした。なによりも神に向かって「アバ父」と呼びかけ「父なる神様との親しい交わり」に招き入れられ、神様と語り合う、対話の祈りという特徴を示していました。そして、父なる神様は祈り求める者をお忘れになることは決してなく必要なことは必ず与えてくださるという確信に満ちた祈りでした。だから、あきらめずに失望せず祈り求め続ける(現在形)という信頼が強調されたのでした。

今日の箇所ではさらに、父なる神様がより頼む者に与えてくださる最高の贈り物について奥義がイエス様によって教えらえました。

1. 悪人でも自分の子には良いものを与える

確かに悪人でもわが子や家族には良いものを与えようとします。ゴッドファーザーのような映画では、平然と人を殺したその血で汚れた手で子供や妻に高価な宝石などをプレゼントしている場面が描かれています。他国を侵略し一般市民の上にミサイルや爆弾の雨を降らせ、大量虐殺する非人間的な指導者であっても、自分の娘たちには優雅で裕福な生活を送らせています。だとすればなおさら、真実な愛に満ちた天の父なる神は自分の子どもたちに良いものを与えないはずがないでしょうとイエス様は語りかけています。

2. 父なる神が与えてくださる最高の贈り物

さて、ひとつ質問をさせてください。あなたが今までの人生で経験した最高の贈り物はどのようなものでしたか。誰からどんなすばらしいプレゼントを受け取られたでしょうか。おそらくそれはただ単に金額的に「高価な物」ばかりではなかったと思います。お金に変えられない素晴らしい贈り物も多くあるからです。

私の次男がまだ幼い時、お小遣いをためて母親に指輪をプレゼントしました。駅前の西友の貴金属店へ連れて行きましたが、気に入った指輪は小遣いをためた値段では遠く及びません。怒って帰ってしまいました。店員さんに私が不足分を払い「いい指輪を見つけてもらった」ともう一度店に連れ戻し、店員さんに演技してもらいました。恥ずかしそうに家内に渡していました。幼い子供ながら母親を思うやさしいこころは金額をはるかに超えた価値ある最高の贈り物といえます。牧師室に額に入れて飾ってある孫娘が私に描いてくれた絵は、ピカソやゴッホの絵以上に私には価値あるすばらしい贈り物です。

神の御子イエスキリストを信じ信頼し、イエスの名によって祈ることを学んだ神の子どもたちに、父なる神様が最高の贈り物として与えてくださったものがあります。ご存じでしょうか。それは「天の父が求める人たちにどうして聖霊をくださらないことがあるでしょうか」(13)と記されている「聖霊」の贈りものです。聖霊は父なる神様が御子を通して約束(ルカ2449 使徒14-5)してくださった最高の贈りものです。聖霊は真理の御霊、キリストの御霊とも表現されます。必要を満たしてくださいという祈りと共に、すでに与えられている最高の贈り物の価値に目が開かれ、喜び、感謝することが祈りの神髄といえます。父は、私たちに本当に必要なものは「神の御霊」であることをご存じだからです。

ヨハネ1416-17「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

なぜ最高の贈り物かと言えば、「物」ではなく、私たちの内に住んでくださる「生ける神ご自身」だからです。聖霊は「もうひとりの助け主」とも呼ばれ「あなたがたの内におられるから」ですとイエス様が明言されました。

時系列でみれば、旧約の時代の人々にとって、天地を創造された神の御霊を受けることができる人々は限定されていました。大祭司か預言者か王だけでした。特別な人だけが特別な期間だけ特別な目的を遂行するために御霊の注ぎと力を受けることができました。それゆえ預言者ヨエルは、終わりの日にはすべての人々に神の霊が注がれ、預言し、幻を見、夢を見るよういなることを切望し預言しました(使徒217 ヨエル228)。さらにイスラエルの民は、御霊に満たされた王であり大祭司であり預言者でもある救い主キリストの到来を心から待ち望みました。

新約の時代にはついに神の御子イエスがキリスト救い主としてこの世界に遣わされ、人として33年の罪なき聖い生涯を歩まれ、十字架で身代わりの死を遂げられ、約束通り死とサタンの力を打ち砕いて復活され永遠のいのちに至る救いの道を用意してくださいました。

そして約束通り、御子キリストは御霊を遣わし、信仰の共同体としての教会を地上に生み出し、キリストの救いのことば(福音)を全世界に宣べ伝えるようにキリストの力を与えました。一方で、キリストを信じる者たちが御国の民としてふさわしいいのちの実を結ぶことができるようにキリストの御霊を内に住まわせ、内側から成長させてくださいました。御霊はキリストの愛の実を豊かに結ばせ、信じる者をイエスさまの似姿へと近づけてくださっています。教会に集う人々はどこかイエス様に似るようになってくるから不思議と言えば不思議です。

3. キリストの御霊を持たない人はキリストのものではありません

ところで、ロマ8:9-10には驚くべき原則が記されています。神様からの最高の贈り物である御霊を持たない人はキリストのもの、すなわち神の子ではないとイエス様が断言しておられます。親は自分の子と他人の子と区別ができます。取り替えたいと思うことがあるかもしれませんが・・。キリストの御霊を持っているかいなかがすべてのすべてです。キリストの御霊はキリストを信じ、バプテスマを受けた時に、神からの恵みの贈り物として無条件で与えられるのです(使徒2:38)。あなたが誕生した時、あなたに父と母の遺伝子が無条件で与えられるのと同じです。あなたがキリストの名によってバプテスマを受けた恵みの時、同時にあなたは賜物として聖霊をいただいたのです。

ですから信仰をもっているか持っていないか、どれぐらい信仰に熱心かそうでないかという基準より、御霊を持っているかいないかの基準こそが大切であり、決定的なのです。磁石を近づければ鉄がおのずとひきつけられるように、キリストが再臨される時にはキリストの御霊を持っている人々がキリストのもとへと引き上げられるのです。

信仰には温度差がありグラディエーションがあります。若い時は熱心でも年をとればそれほど活動できなくなります。生活環境の変化や体調も影響します。しかし御霊を半分しか持ってない、とうとう1/3になってしまったということはあり得ません。なぜなら御霊は「分量」ではなく、御霊は「生ける神」ご自身ですから。神ご自身を切り分けることなどできるはずがありません。

ロシアとウクライナの戦争が始まり、連日悲惨な情景が放映されると、ショックと刺激を受けて落ち着きを失い、黙示録に記されている終末の時代の始まりだ、預言の成就だとさざ波が泡立ち始めている牧師や教会があるようです。3年前、世界的にコロナパンデミックが始まった時にも不安と恐怖から「世の終わりだ」と世間は騒ぎ立ちました。

聖書の預言通り終末とキリストの再臨は100%来ます。私も信じています。その場合、世界的な破滅と恐怖という一面だけでなく世界的な救いと希望にこそ目をとめなければなりません。また「だから不信仰な者よ、悔い改めよ。クリスチャンは目を覚ませ、生ぬるい信仰では天国へ入れない」などと信徒を脅してはなりません。キリストにある平安は恐怖心で揺さぶられるようなヤワなものではありません。内なる御霊の平安はゆるぐことがありません。

宗教改革者ルターは「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」と静かに語りました。ルターの意図は、たとえ明日世界が終ろうと、私の人生が終わろうと、いつものように畑にリンゴの木を植えながら、私はイエス様の救いを普段通り語り伝え、証しし、いつものように神を賛美するということです。キリストの御霊を持つ者の本物の生き方がここにはあります。緊急時の生き方も日常の生き方と変わらないのです。

イエス様が良き羊飼いの譬えで語ってくださったように、よみがえられた主キリストの御霊は、私たちの霊的な誕生の日から、天に召されるその時まで私たちの全生涯を導いてくださいます。そして私たちの人生を御霊の愛と希望の中に導き続け、御霊の実を結ばせ続けてくださるのです。これこそ、最高の贈り物ではないでしょうか。

「神の御霊に導かれる人は誰でも神の子どもです」(ロマ814

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」(ガラ525

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