【福音宣教】 主イエスの復活 人生最大の希望
2022年4月17日  ルカ24:1-11

今朝はイースター、キリストの復活を共に喜び祝いましょう。

安息日が明けた日曜日の朝、マグダラのマリア、ヤコブの母マリアとヨハンナ達、女性の弟子(10)たちが改めてイエス様の埋葬を丁寧に行うため、香油を携えて、アリマタヤのヨセフが提供した岩をくり抜いて作った洞窟式のお墓に出かけました。ローマ兵の手によってお墓の入り口は大きな岩でふさがれ、漆喰で密閉されていたはずですが、どういうわけか岩が取り除かれ中に入ることができました。ところがお墓の中はからでした。あるはずのイエス様の亡骸は消えてしまっていたのです。彼女たちは、イエス様を憎む者たちが墓まで荒らして、遺体をどこかへ持ち去ってしまったと考え、戸惑い、途方にくれていました。その時、御使いが現れ、「なぜ生きている方(現在分詞)を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえらえた(過去)のです」(6)と告げました。

.途方に暮れていた

「途方にくれる」(アポレオ)という動詞は、「道が途切れ、橋が落ちてしまい、先へ進めない状態」を指すそうです。崖崩れで道がふさがって通れなくなってしまった。大雨で橋がながされて川を渡ることができなくなってしまった。あちこちで寸断状態が起きて通行できない。今さら引き返せない、困り果てどうしたらいいのかまったくわからない。茫然自失、頭も真っ白という状況を指します。不安とか失望とか恐れとかまでいかない心理状態だけれど、とにかく弱りはて行き詰ってしまったという状態です。皆さんの人生にも「途方にくれる」そんな状態に置かれたことがなかったでしょうか。そのような窮地に陥ってしまう3つの原因があります。

第一の原因は、人の世に解決を求めるからです。御使いは「なぜ、生きていおられる方を死人の中に捜すのか」と問いかけたように、神に対する信仰に生きるより、死人の中すなわち死をもって終わっていく無力な人間の世界に解決を求めるからです。先週、「求めなさいそうすれば与えられます」と学びました。この場合、求める相手は父なる神に対してでした。人やこの世に対して求めるのではありません。困っている人がいれば助け合うこと、頼まれれば与えること、それは美しい心です。私たちも今朝、ウクライナの難民の方々への支援献金をしています。しかし人間にできることにはいつも限界があり、限られたことしかできません。しかも、一時的なことしかできません。生きておられるまことの神の中に真の解決があることを知らなければ、生涯、「途方にくれる」人生を歩むことになるといえます。人と世に頼むかぎり悩みは絶えませんが、キリストに頼れば勝利(ヨハネ1633)するのです。

第二の原因は、否定的な考えに陥るからです。

マリア達はお墓の中にイエス様のからだが見つからなかったとき、「イエス様を憎む祭司長やパリサイ人たち、宗教的指導者たちが、お墓を暴いて、盗み出した。どこかへ持ち去ってしまった」と瞬時に考えました。否定的悲観的な思いにとらわれました。そうすると、「そこまでするとはひどい、絶対許せない。うらんでやる」といった激しい怒りや恨みが湧き上がってきます。さらに「そうだとすればもう見つけることは不可能」だと考え、その結果、大きな悲しみと落胆に覆われてしまいます。彼女たちの考えは事実ではありませんでした。その可能性がないわけではありませんが、事実ではありませんでした。

実際何が起こったのでしょう。イエス様の身体が墓に葬られ、墓の入り口が大きな石でふさがれ、漆喰で固められローマ皇帝の名による封印がなされ、徹夜で警護するローマ兵が見張っていても、大岩は転がされ、封印は破られ、キリストはよみがえられたのでした。「ここにはおられません。よみがえられたのです」と御使いが語ったことが事実でした。

途方にくれ、弱り果てる時、私たちは事実とは異なる、悲観的な否定的な思い・考えにとらわれてしまいます。それは憶測である、事実ではなく頭の中だけの世界・想像に過ぎません。しかも妄想という突飛もないことではなく、有りうるかもしれない可能性を秘めた想像だけに余計、扱いが難しくなります。悲観的な想像は無限大に広がっていき、終わることがありません。サタンがもたらす誘惑の一つは、「否定的な思い」にがんじがらめに縛り上げることです。そして祈っても何の役にも立たない、神など存在しないのだと、神を否定する不信仰へといざなうことにあります。

第三の原因は、聖書のことばを信じないからです。

*マリア達が、からの墓の中にイエス様のからだが見当たらず、墓が空になっていること、御使いが現れ、イエス様は「よみがえられたのだ」と語ったことばをありのまま、ペテロたち弟子に伝えました。ところが、かれらの反応はじつに冷ややかなものでした。御使いのことばは神のことばです。イエス様のことばも神のことばです。

ところが、「この話はたわごと」(11)と思い、耳を傾けようとしませんでした。真実を告げる彼女たち自身を「信用しなかった」(11)のです。話の内容を信じなかったばかりか、すばらしい復活の知らせを伝える彼女たちの人格を、存在を「信用ならん」と切り捨てたのでした。大切な仲間同士にひび割れが生じだしているのです。

神を信じ、神のことばを信じない不信仰な生き方は、「途方にくれるばかりでなく」、人間関係にも「寸断状態」をあちこちで生じさせます。人間関係がこじれ、寸断し、断絶し、最後は「言ってることも、やってることも、本人自身が信用ならん」と切り捨てていく悲しい結果を招きやすくなります。

*御使いは途方にくれ、いったい何がおきているのか、訳が分からないマリアに対して「人の子は・・・三日目によみがえらなければならないといったでしょう」(7)と告げました。するとマリア達は「イエスのみことばを思い出した」(8)とあります。神のことばは真実です。神の永遠のご計画に基づいて、救いの御業をなされます。神の御子の誕生も、十字架の死も、死の束縛と鎖を打ち砕いて勝利された復活もすべてが神の永遠のご計画に基づいて実行されましたから、かならずその通りにならなければならに、「神の必然的行為です」。ですからこれほど確かなものはありません。

2. 復活の約束に生きる

「私はよみがえりでありいのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きる」(ヨハネ1125)。神の御子イエス様の最大の約束のことばはこの「復活」のことばでした。たとえ地上において肉体の死を迎えても、キリストを信じる者は「永遠のいのちに生きる」と約束してくださいました。永遠のいのちに生きるとは、永遠の神の国に国籍を持つ神の国の民の一人として生きることを意味します。ですからここに、地上の生活を超えた、人生最大の希望が存在するのです。キリストの復活を信じる者は、神の家族としてともに、この地上おいても来るべき天の国においても生きることができます。私たちの希望と喜びはキリストの復活の良き知らせと共にあります。これからWITHコロナの時代と言われていますが、私たちはいつもよみがえられたキリストと共に、WITHジーザスの人生を歩みます。

主と共に歩むならば、きっとあなたの人生の道が「寸断」することはないでしょう。

ロマ1212「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」

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