【福音宣教】 日毎の糧を与えてください 

2022年4月3日  ルカ11:1-4 

いよいよ4月に入り桜も満開となりました。17日にはイースター礼拝をともに捧げてまいりたいとこころから願っています。観光客が京都の神社仏閣に植えられた桜見学とお参りに繰り出していることと思います。どのような神々に向かってどのような思いで祈りをささげているのでしょうか? 2000年前、イエス様は「祈ることを教えてください」と願った弟子たちに、従来のユダヤ教の祈りとはまったく異なる新しい祈りを教えてくだしました。後にその祈りは「主の祈り」と呼ばれるようになり、代々のキリスト教会で祈られ続けてきました。主の祈りは、信仰による祈り、希望による祈り、そして愛による祈りともいえます。「父よ、聖名があがめられますように」(2)は、信仰によって開かれた父なる神様との親しい対話としての祈りへの招きという特質をあらわしています。「御国が来ますように」(2)は、まさに全世界の教会とクリスチャンたちのゆるぎない究極の希望であり、永遠の神の国と地上の神の民をつなぎ合わせる祈りです。今日、読みました後半部分は、まとめるならば非常に具体的な「愛による祈り」と呼ぶことができると思います。

1. 日毎の糧を与えたまえ

飽食の時代に私たちは生きています。スーパーマーケットにはところせましと食品が並べられ、家庭の冷蔵庫の中にはぎっしりと食べ物がおさまっています。現代人は食べすぎが病気の主な原因になっています。ですから「日ごとの糧を与えてください」という切実な祈りは実感にならないのではないでしょうか。むしろ「ダイエットする力を与えてください」と切実に祈る方もおられるほどではないでしょうか。しかし、聖書の時代にはしばしば、食料危機、天候不順による「飢餓」状態が勃発したようです。奴隷、貧しい人々、未亡人、孤児、働くこともできない病人なども教会の大切なメンバーでした。ですから「日ごとの糧を今日も与えてください」という祈りは、まさに当時の教会の切実な祈りであったといえます。旧約聖書には「貧しくて盗みを働くことがないように」(箴言309)という祈りが記されています。

欲望のために罪を犯すのではなく、空腹のために罪を犯さざるを得ないことほど悲しいことはありません。ですから日毎の糧を与えてくださいとの祈りは、貧しい人々とともに生きる共同体としての「教会の愛の祈り」といえます。南部ウクライナのマリウポリではガスも電気も水道もインフラが破壊され、寒い中、食料もない中で市民は、恐怖におののきながらいのちをつないでいます。1か月前には想像すらできなかった悲惨な状況です。世界では年間1500万人の人々が餓死しているといわれています。

私たちが「良きサマリア人」のたとえ話で示された「隣人愛」意識に目覚め、世界を見渡しつつ、「日ごとの糧を与えたまえ」という愛の祈りを、深める時ではないでしょうか。

2. 罪をおゆるしください

対人関係は私たちの人生における大きな悩みの一つです。いいえ、人間の抱える悩みのほとんどは「対人関係」の悩みだとも言われます。親子の問題、夫婦の問題、骨肉の争いとも呼ばれる兄弟間の悩み、会社における上司や部下との問題、仲間同士の競争や足の引っ張り合い、ご近所付き合いのなやましさなどきりがありません。どれほど傷つけられまたどれほど自分も相手を傷つけて来たか、そこには「恨み・憎しみ・怒り・妬み・誹謗中傷・あざけり・裏切り」といった罪が渦巻いています。

対人関係(人間同士)の罪の赦しは、対神関係による罪のゆるしがなければ解決はできません。神がこの私の罪を赦してくださった。この恵みの事実を知ってはじめて、自分にされた罪を赦すことができるのです。

聖書を通して、私たちは神の御子イエスキリストの十字架の身代わりの死によって、罪の赦しが私にもたらされたことを知り、感謝するようになります。イエス様が2000年前にカルバリの丘の十字架で祈られた「父よ、彼らの罪をおゆるしください」(ルカ23:34)という祈りは、ほかならぬ「この私のための」赦しの祈りであったことに目が開かれた時に、見える世界が違ってくるのです。その時、自分に罪を犯した者を、自分を苦しませ、傷つけた者に赦しを祈ることができるのです。赦すなどとおこがましい表現だとさえ感じます。「負い目」をイエス様の十字架の足元にそっとおかしていただくことができるのだと私は感じています。そこに癒しと平安と和解が生まれます。主の祈りの中の「罪の赦し」は、イエス様が教えてくださった愛による祈りであるといえます。

3 試みに合わせず悪より救い出したまえ

この祈りのことばとヨハネ1633「あなたがたはこの世では悩みがある、しかし勇気を出しなさい」という言葉は矛盾するのではと思うかたがおられるかもしれません。「試練に耐え忍ぶ人は幸いです。約束されたいのちの冠を受けるからです」(ヤコブ113)とも矛盾しないでしょうか。どう理解したらよいでしょうか。

イエス様は弟子たちがまだまだ未成熟であることを良く理解していました。かれらの最大の弱点は「傲慢さ」にありました。だれが一番偉いのか、だれが神の国で大臣になれるのかと言い争い、自分の無力さ、もろさ、おろかさには、まったく気がついていませんでした。そんな彼らが苦難や困難や試練に耐える力などもてるはずがありません。「火の中でも水の中でも従います」と豪語っしたペテロは、「あなたもイエスの弟子でしたね」という一人の女中のことばに震えあがって、「イエス等、知らない」と3度も否んでしまいました。ましてやサタンに打ち勝つことなど、とうてい無理な話です。サタンは相手にもしないでしょう。赤ちゃんの腕をねじ挙げるようなものです。サタンの相手は神の御子イエスのみです。

弟子たちは、自分の弱さ、もろさ、土の器の過ぎないことを、イエス様により頼まなければ何もできないことを、徹底して学ばなければなりませんでした。ですから「試みに合わせず悪より救い出したまえ」と謙虚になって祈ることが不可欠なのです。

しかし、そんな弟子たちに大きな変化が現れたのは、ペンテコステの日にキリストの御霊が教会に注がれた時です。キリストを受け入れ、信じる者たちの中にキリストの御霊が内在されるようになった時から、変わりました。その時には、どんな試練の中にあって「私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」(ピリピ412-13)とキリストにあって告白できる弟子たちとなりました。

キリストの御霊に満たされた者は、「私たちは私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことのなか(35節に列挙されています)にあっても圧倒的な勝利者となるのです」(37)と告白します。
どんな困難も、キリストにある神の愛から引き離すことはできないからです。キリストに愛されている自分、決して見放されない自分への信頼を堅く保つことができるのです。これこそが祈りの力とも言えます。

まとめましょう。貧しさのゆえに飢えて苦しむ者に今日の糧を与え、彼ら、すなわち私たちの隣人のいのちを支えてくださいとの祈りは、愛の祈りそのものです。

自分を傷つけ、苦痛や痛みを与えた者、この私に罪を犯した者に対する怒り・恨み・憎しみ・癒しがたい悲しみ・トラウマとなっている深い記憶の中の傷、それをイエス様の十字架のもとにおくこと、これもまた、愛の祈りそのものです。

試みに耐えられないような無力な自分を知り、弱さを受け入れ、あいのままの自分になって「試練と悪より」救い出してくださいと素直に祈るとき、キリストにあってどんなことでもできる、キリストの愛から決して引き離されるどころか、ますます愛されている自分を自覚していけること、これもまた、主の祈りが愛の祈りである証拠といえます。

この時代にあって、私たちもこころをこめて祈りましょう。主の祈りは、信仰による祈り、希望による祈り、そして愛による祈りであることを覚えつつ。

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