【福音宣教】 あなたの隣人とはだれか

2022年3月13日  ルカ10:25―35 

京都市とウクライナのキエフは1971年に姉妹都市締結をしています。古い文化と伝統を持つ美しい都市として2つの市は結ばれ50年近い交流を重ねています。今まさにその都市が爆撃され破壊されようとしているのですから、私たちは決して、他人事、傍観者であってはならないと思います。

70人の弟子たちによって「神の国の福音」広く宣べ伝えられる事態にいたって、ついに律法の専門家たちが反撃をはじめました。イエス様を試すために「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができますか」と悪意をもって質問してきました。するとイエス様は2つのことを聞き返しました。彼らが熟知している律法には何と書いてあるか、そしてあなたはそれをどう読むか、つまりどのように自分の生き方を通して実践するのかと問われたのです。知識とともに実践あるいは個人的な適応を問い直したのでした。

1.
 神を愛し隣人を愛せよ

申命記65「あなたの神を愛せよ」そしてレビ1918「隣人を自分自身のように愛せよ」との2つの聖句を学者は即答しました。それは正解でした。モーセの10戒の内、第1戒から第4戒までが、「神を愛する」戒めであり、第5戒から第10戒までが、最も身近な「両親から隣人までを愛する」戒めだからです。教科書的な回答としては満点でした。
しかし、あなた自身の生活の中の実践としてこの2つの愛、神への愛、隣人への愛をどのように読み込み、受けとめ、他人事としてではなく、我がこととして実践しているのかというイエス様からの問いかけに対しては、沈黙し、答えていないのです。答えられなかったのかもしれません。知っていることと実際に行っていることとは違います。車の運転を教科書で学んでも、路上でうまく運転できるかといえば違います。10年間無事故無違反ですと「ゴールデンカード」を持っていても、実際は10年間、一度も車を運転したことがないというのと同じです。

かつてイエス様に同じ質問をして同じように正しく回答した裕福な家庭育ちの賢い若者がいました。イエス様が「では持ち物を売り払って私に従いなさい」と問いかけると、悲しげな顔をして若者はイエス様の元から立ち去りました。しかしまだ彼は、知識と実践の間のギャップを自覚し、心の痛みを覚える「若者らしい心の柔らかさ」をもっていました。ところがこの律法学者は自分の内面に問いかける「内省力」をまったく持たず、むしろ怒りを込めて、「律法の教えを実行しなさい」と語りかけるイエス様に、「では私の隣人とは誰ですか?」と反論してきたのでした。

2. 親切なサマリア人の譬え

ルカの福音書のルカは、ここでイエス様が話されたたとえ話(30-37)とマルタ・マリヤの家での出来事という実例(38-42)を取り上げています。譬え話は「隣人を愛すること」について、マルタの家での実例は「真の意味で神を愛し礼拝するとはどういうことか」を教えています。ルカは医者でしたから、ち密な論理的構成をしていることがわかります。

さて、イエス様のたとえ話は「親切なサマリア人」の話としてよく知られています。なぜたとえ話で話されたかというと、この律法学者にしっかり自分で考えさせるためでした。

場所は神殿があるエルサレムからエリコの町へ下る道です。距離は約30キロ、高低差は1.1キロ以上に及ぶ、岩や谷が連続する険しい急な坂道で、強盗が出没する危険な場所として知られていました。ですから人々が集団で旅をしたそうです。

旅人を待ちうけている強盗団、彼らの犠牲になって大けがを負った旅人、そこを通りかかって彼を助けたサマリア人、そしてエルサレムの神殿での奉仕を終えて帰ろうとしている祭司職の人とレビ人と呼ばれる神殿で仕える奉仕者、そして宿屋の主人です。サマリヤ人はユダヤ人と異邦人との混血民族で偶像礼拝者でしたから、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していました。案の定、一人旅をしていた被害者は強盗の餌食になってしまい「半殺し」にまま放置されていました。そこへ祭司とレビ人が通りがかりましたが、災難を恐れて道の反対側を見て見ぬふりをして通り過ぎていきました。

家畜に荷物を積んだサマリヤ人が通りかかると「心の底からかわいそうに」(33)思って、彼を介抱し、麓の宿屋にまで連れて行き、治療費と宿泊代まで宿屋の主人に手渡したのでした。

イエス様が「誰がこの傷ついた旅人の隣人になったか」と律法学者に問いかけると、「親切な・あわれみをかけた人です」(37)と、彼は苦虫をつぶしたような表情で答えました。「サマリア人です」とは口が裂けても言いたくなかったのでしょう。本当に嫌なやつですね・・。

イエス様は「では、あなたも同じようにしなさい」と言われました。2重の意味で「あわれみ深い隣人になれ」と言われたのです。傷ついた者に手を差し伸べる隣人になれ、ましてや同じユダヤ人仲間ではないか。もうひとつは、手を指し伸ばしたサマリア人の隣人になれ、差別の壁を越えてと。

ユダヤ人にとって律法が教える隣人とは、同じユダヤ人のみに限定されていました。サマリヤ人を始めとする異邦人は神に敵対する敵であったわけです。ところが、このサマリア人は敵味方の区別なく、傷ついた者に対して「あわれみの心」をもって手を差し伸べました。このこころなくしては隣人にはなれないのです。自分は祭司だから、レビ人だから、血を流している人に触れたら汚れてしまい、神殿での奉仕ができなくなってしまう。巻きぞいになるのはまっぴらごめん、くわばらくわばらと、恐れて避けていては、隣人にはなれないのです。ましてや、「費用がかかるならば帰りに再び立ち寄って支払います」(25)などという犠牲的な言葉は決して口に出せないでしょう。

3. 隣人とは

「愛は形容詞ではなく動詞である」とある先生が言いました。蓮見和男牧師は「苦しみに出会う時、近づいていく愛もあり、苦しみを見て離れていく愛もあります。人間の苦悩は愛を試します。」と記しています。さらに「傷ついた旅人がいる場所、それこそこの世のただなかにある聖所です。・・そこではこの苦しみを共に苦しむ共苦、共感、共同責任だけが大事です」(ルカによる福音書261)とも語っています。考えさせられることばです。

ユダヤ人にとってのエルサレムの神殿、サマリア人にとってのゲルジム山の神殿が、神への愛と礼拝をささげる聖所ではない。傷つき苦悩する人がそこにいるなら、その人が隣人であり、そこが神を愛する礼拝の場であり、神と共に愛に生きる実践の場なのだと。

まさにイエス様はこの真理を律法の専門家に伝えたかったのでしょう。そして、傷つき、倒れ、苦悩する人々、死の恐怖に恐れおののく人々、神を見失った罪人の隣人となり、罪と重荷を引き受け、十字架の死に至るまで歩まれたまことの隣人はイエス様ご自身なのです。

理想と現実、教えて実践の間に横たわるギャップを誰もが抱えています。その溝のただなかに立ってくださるのはイエス様なのです。イエス様を抜きにしては、恐れが先立ちます。イエス様を抜きにしては損得計算が働きます。イエス様を抜きには自己保身が優先します。「帰りに費用は払います」という代わりに「本人の家族から費用を請求して、帰りに立ち寄りますから、きっちり立替分をわたしに帰してください」と言いかねません。

ときおり、駅で誰かが倒れたりします。さっと駆け寄る人は意外と少ないのです。遠巻きにして傍観者になります。あるいはさっさと脇を通り過ぎていきます。私もなんどか遭遇しました。一瞬、かかわらないでおこう、めんどうくさい、ややこしいことになるかも・・コロナで倒れたかも?などといった思いがよぎります。生まれながらに臆病な私の足は止まってしまいます。すぐに駈け寄れないのです。そんなとき私は「イエス様だ」と、心でくりかえします。すると足が自由になって近づき、「どうしましたか」と声をかけることができます。

人間的な同情心ではなくイエス様が動いてくださらなければ、人間的な親切ではなく、十字架の愛が発動されなければ、傷ついた者に近づき、手を差し伸べることさえできないのがありのままのお互いのすがたではないでしょうか。

「 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(1ヨハネ4:18)

愛を実践した「良きサマリア人」を英語では「GOOD SAMARITANS」といいます。スイス人の実業家アンリー・デュナンは1859年イタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノで悲惨なありさまを目の当たりにしました。デュナンは放置されていた負傷者の救護活動にあたりました。「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士として、その尊い生命は救われなければならない」。これが「国際赤十字」の始まりでした。

1953年、ロンドンの牧師チャッド・バラーは、1日に3人の自殺者が出る現状に心を痛めていました。自分が執り行った葬儀が出発点でした。それは、14歳で初潮が始まった一人の少女の葬儀でした。彼女は初潮について話せる人が誰もいなかったために、それを性交渉で移された病気だと信じてしまい、自殺してしまったのでした。たとえどんなに恥ずかしいことであっても相談できる人間のネットワークをつくることで自殺を食い止めたい、そのために身をささげようと決心しました。これが「いのちの電話」の始まりでした。

「あなたの隣人とはだれか?」と、今もイエス様は私たちに問いかけておられます。傷ついた人々の傍らで、私と一緒に手を指し伸ばしてくれるか? とイエス様は私たちに問いかけておられます。

ウクライナで戦禍におののくキエフの住民、京都と姉妹都市のこの街に住む人々のためにこころを合わせて祈りましょう。隣国に非難した300万人のウクライナ難民のために、私たちにできうることを考え、支援しましょう。                                                以上

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