【福音宣教】 収穫のための働き手

2022年2月27日  ルカ10:10-16

イエス様は12弟子以外に70人の弟子たちを派遣しました。そして彼らを迎え入れてくれる家があればその家に宿泊し、食卓を囲み、御国の福音を伝えなさい。そうすればその家は福音の家として町や村の祝福の基となることを教えました。では、もし受け入れない場合はどうしたらいいのでしょう。かならずしも喜んで受け入れてくれる人ばかりが住んでいるわけではありません。お断り、結構です、間に合ってます!と、拒否される場合も多々あります。私もトラクトを配布していて「勝手に敷地の中に入ってくるな」と怒鳴られたこともあります。

人生はうまくいくことばかりではありません。失敗すること、歓迎されるどころか、思わぬ反撃をくらい、拒絶されることも多々あります。良いことばかりを期待していると期待外れとのギャップの大きさに落ち込んだり怒りを覚えたりするものです。期待通りにいかないことも想定し、次善の策も用意しておけば、感情をコントロールしやすくなります。これも知恵の一つではないでしょうか。イエス様の教えはこうです。

第一に、無理にこだわるな

受け入れようとしないならば、「大通りに出て行って足の塵を払いなさい」(11)。これは「責任がない」という意思表示のジェスチャーだそうです。「自分たちのなすべきことはした。ここから先はあなたがたの責任です」という意味です。つまりこれ以上、何とかしようと意固地になるのでなく、次の村や町へ移動しなさいという意味です。なぜなら、多くの人々が救いを求めているからです。神の助けを求めている、差別を受けて苦悩し、貧しさで飢え渇き、病で苦しみ、悪霊に悩まされている大勢の人々がいるからです。だから拒絶する村や町にこだわるより、一時、そこから離れなさい。もし、必要ならば時間をおいてまた訪問すればよいのですから。こだわり、完全主義、ねばならない思考は、時には神様の自由なお働きやみ旨に制限をかけてしまうことになりかねません。

大規模な災害現場にドクターヘリで数名の医者が送り込まれた。脳外科手術をしなければいけない重傷者がいる、その人に全員がかかりきりになるより、トリアージをして負傷の重度を判別して、ひとりでも多くの人に応急処置を施していくそうです。医者としては忸怩たる思いがあっても、それが今は託された役割だからです。「収穫が多いが働き人が少ない」現状では、求めている人に福音を語ることが優先されます。

第二に、神の国の福音を拒む罪は大きいこと

70人の弟子たちは、カぺナウムやコラジンやベッサイダ地域に遣わされたと思われます。

カぺナウムはイエス様がガリラヤ地方で宣教の中心拠点とされた町で、ガリラヤ湖の北西部にあります。カぺナウムにはイエス様の家があり(マルコ21)、説教をし、数多くの癒しのみわざをされた(マルコ9:33以下)ご自分の町(マタイ91)でした。コラジンはカぺナウムから3-4㎞の町、ベッサイダはガリラヤ湖の北東部ヨルダン川近くの町でペテロ・アンデレ・ピリポの出身地です。ベッサイダの町ではイエス様の宣教の働きが進展し、5000人のパンの給食の奇跡も行われたほどでした(ルカ910)。ところが、結果的には「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(ヨハネ444)とイエス様が語られたようにそれほど多くの実を結ぶことはなかったようです。それゆえイエス様のきびしいことばが向けられています。

神の国の福音を拒む罪は、旧約聖書で激しい神の怒りがくださった「ソドム」の町より、「ツロ。シドン」の町より罰は重い。ソドムは、アブラハムの甥ロトが移り住んだ低地にある繫栄した都市でしたが、罪悪に満ち満ちていたためついに天から火がくだって焼き滅ぼされた町(創世19)でした。旅人をもてなす律法の教えがあったにもかかわらず、旅人を集団で暴行しようとした町でした。ツロ・シドンは地中海沿岸にある異邦人の商業都市で経済的に繫栄していましたが、常に異邦人の偶像礼拝が持ち込まれた邪悪な町でした。預言者たちによってその悪が繰り返し非難されました(イザヤ23,エレミヤ25)。ところがヨナが宣教すると、王も民もこぞって悔い改めました。もし福音が伝えられたら異邦人たちも悔い改めるであろう。ところが、イエス様が宣教の拠点とされたガリラヤ湖周辺のベッサイダ、カぺナウムに住む人々は、心を頑くなに閉ざし、悔い改めることもしない。それゆえ、天に上げられるどころか、ハデス(黄泉)に落ちるであろうとまで言い切っておられます。ユダヤの国では、律法の教えに背くことが罪とされました。ところイエス様は、キリストから遣わされた使徒たちが伝える「福音」を聴いて拒むこと、これこそが最も大きな神に対する罪であると語っておられるのです。どんな罪も神の御子の十字架によって赦され、永遠のいのちを受け継ぎ、約束された神の国に入ることができる。この福音を拒むならば、父なる神が憐れみをもってご用意してくださった、唯一の救いの道を閉ざすことになってしまうからです。

第三に、だからこそ愛をもって神の国の福音を語る

よく読めばこの神の裁きは町の人々に直接語られているのではなく「あなたがた」(12)とあるように、遣わされていく70人の弟子たちに向かって語られています。取り違えないようにしましょう。私たちクリスチャンには裁く権限など与えられていません。ですから「預言者気取り」で不信仰者を裁いてはなりません。ヨハネが不信仰なサマリヤの町を「天から火を下して滅ぼしてしまいましょう」(954)と、感情的になって暴言を吐いて、イエス様から叱られたことを思い起こしましょう。クリスチャンは神の愛と共に神の裁きの厳粛さも知っています。知っているからこそ、「裁く」のではなく、「祭司」として執成すことに情熱と思いをありったけ注ぐのです。

復活され天の御座におられるイエス様は永遠の「大祭司」として執り成しておられます。主の弟子たちは「預言者イエス」の後継者ではなく、「大祭司イエス」の後継者です。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(へブル415

偉大な使徒パウロは、同胞の為にも、異邦人の為にも、すべての聖徒の為にも、夜昼涙をもって執り成しました。

「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」(使徒20:19)                                                  「私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」(ピリピ3:18)

救世軍の創始者であるウィリアム・ブースは、「神学校の学生を卒業を前に地獄へ連れていきたい。そうすれば、彼らは生涯、命がけで救いを語るであろう」と言ったそうです。牧師になるための学校の卒業旅行先は「地獄だ」というのは驚くべき発想ですが、ブースが何を見ているのか、そして牧師となる卒業生たちに何を知ってもらいたかったのかが伝わってきます。

イエスさの弟子たちは、神の裁きに対する「高みの見物者」ではありません。むしろ、罪人と呼ばれている人々のただなかに降りて行って、彼らの弱さに同情しつつ、共感しつつ、涙をもって執り成し続けていく働きが求められているのです。頑ななこころを打ち砕くのは、人のわざではなく神のわざです。そして神の御業はその人の地上の生涯の最後の際まで及びます。ですから諦めることなく、早急なレッテル貼りをしてしまうことなく、執り成しの祈りを忍耐と涙をもってささげてまいりましょう。

「愛をもって真理を語りなさい」(エペソ4:15)

  目次に戻る