【福音宣教】 敵も味方も超えた世界

2022年2月6日  ルカ9:49-56

弟子たちは「誰が一番偉いのか」という「比較と競争」というこの世の価値観でお互いの優位性をはかっていました。そこでイエス様は「最も無価値な者を受け入れる心の持ち主」こそが、私の弟子としてふさわしいと諭しました。リック・ウ-レン牧師は著書の中で「人生のストレスの多くは、偽りの自分を演じること、あるいは自分でない誰かになろうとすることなどに起因する」と語っています。比較と競争は無理な背伸びと虚勢をはった偽りの自分を生み出してしまいます。他の誰かと比較する必要もないほど、神に愛され尊い存在とされているあなたをしっかりと見つめましょう。

今日の箇所では弟子たちが抱いていた「誰が味方で誰が敵か」と境界線を引いて差別するという問題をイエス様が取り扱っておられます。意外にもヨハネがその中心人物でした。晩年のヨハネは「愛の使徒」と尊敬されるほど、慈しみに満ちた人物と変えられましたが、若い頃は兄のヤコブと共に「雷の子」(ボアネルゲ)とイエス様からあだ名(マルコ317)をつけられるほど、怒りっぽい瞬間湯沸かし器のような性格でした。こんなことがありました。ヨハネは、「イエス様の名を勝手に使って悪霊を追い出している者たちを見かけたのでやめさせました。私たちの仲間ではなかったからです」とイエス様に報告しました。するとイエス様は、「やめさせる必要はない。あなたがたに反対しない者はあなたがたの味方です」(50)と諭しました。

1. 反対しない者は味方です

仲間以外の者が勝手にイエス様の名によって悪霊を追い出しているのはけしからん!と、ヨハネは腹を立てているわけです。ここに強烈な身内意識を見ることができます。一線を引いて内と外、身内とよそ者を区別して、身内や仲間以外は敵あるいは邪魔者とみなして退ける、あるいは不利益になる行動をとる。京都には伝統と歴史を持つ「老舗」が多くありますから、それぞれプライドがあり「元祖〇○」「本家〇○」「創家〇○」「本舗〇○」と銘打って格式を重んじ差別化を図ろうとします。アメリカではバプテスト教会は最も数が多い大きな教派ですが、「第一バプテスト教会」と名乗るのを好むそうです。第一が名乗れないなら「セントラルバプテスト教会」という名前を使うそうです。

神の御子イエスは、やがて来るべき御国の王としての権威と力をもっていましたから、悪霊たちは恐れおののいていました。ですからイエスの名によって命じると悪霊は退散し、イエスの名によって祈ると病も癒され、奇跡がおきました。ペテロも後に、生まれながら足に重度の障害をもっていたため、働くことができず、神殿の門の傍らで物乞いをして暮らしていた男に対して、「金銀は私にはない。しかしイエスキリストの名によって歩け」(使徒36)と命じると、彼がたちどころに癒され立ち上がって神を賛美するという奇跡を行うことができました。重要なことは、イエスの名に権威と力があるのであって、イエスの名を語る者たちに優れた権威や力があるわけではないことです。ところがヨハネはイエスの名によって悪霊を退けたりするなら、俺たちの仲間に入り、俺たちのルールに従わなければならないと主張したのです。俺たちに従わなければ!とは何と狭い世界と根性でしょうか。これをセクト主義、あるいは縄張り主義といいます。まるで子供が「うちらのグループに入らなかったら遊んであげない、あっちへ行って」と意地悪をするようなレベルです。誰が一番偉いか、あるいは誰が一番できが悪いかかと周りと比較して、優劣を決めつけようとする罪と同様、線引きをして味方と敵を分けて、対立関係を生み出してしまうことも生まれながらの古い人間の持つ典型的な罪の性質といえるのではないでしょうか。ですからイエス様は彼らの働きを「やめさせてはならない」(現在命令形)と諭しました。敵や味方は自分の中から作り出すものです。敵も味方も自分からつくらない「寛容さ」をイエス様から学びましょう。

今日の教会に適応すれば、確かにキリスト教会には多くの教派教団がありますが、みなキリストにあって一つです。福音を伝え、福音に生きる一つの共同体として世におかれています。ですからお互いが競い合ったり優劣をつけたり、自分たちこそ特別のグループなどと主張するのは愚かなことです。伊勢の名物「赤福」は、京都駅のキヨスクで売られていても、伊勢丹で売られていても、大丸で売られていても同じ赤福に変わりありません。違うのは手提げ袋のデザインの違いだけですから。おいしく食べるのは中身の赤福であって、紙袋ではありません。

イエス様は小さな違いにとらわれ、線引きをして争ったり、非難したり、足を引っ張りあったりすることをやめ、もっと大局から「神の国の宣教」に心を注ぐようにとと願っておられます。なぜならば、いつの時代も「働き人」が少ないからです。1億2千万人いる日本国民の中でキリスト者の数はカトリック・プロテスタント合わせても100万人に至らないほど少数です。さらに牧師と宣教師を合わせても約1万人にも満たないのです。しかも高齢化が加速しています。うちわであれこれ争っている状況ではありません。この日本にクリスチャンは「100万人しかいない」のではなく、「100万人も仲間がいる、神の家族がいる、すばらしいことじゃないかと、互いに認めあい、それぞれ「よくやってるね、互いにがんばろう」とエールを交換し、たとえ手を握り合えなくても、笑顔で手を振りあえばいいのです。私たちクリスチャンは小さなことに意識を向けてこだわったりするのではなく、「神の国」という大きな世界に目を向け、広い心(ピリピ118)を持たせていただきたいものですね。

2. イエスを受け入れない者は滅ぼしてしまえ 

さらに血気盛んなヨハネと兄のヤコブは、ユダヤ人と異邦人との混血民族であるサマリア人が、イエス様を受け入れようとしない姿を見て、業を煮やしてとうとう「天から火を下して、焼き滅ぼしてしまいましょうか」(54)と、恐ろしいことを口走りました。兄弟そろって「雷の子」と言われるほどですから、言うことやることがどうも極端で、暴走する傾向があるようです。悪霊を追い出し、病を癒す力を受けたからと言って「天から火を下す」などという傲慢で尊大なことを口走るところに、この兄弟の未熟さがみられます。少しばかり成功し、ちょっとほめられ認められると、ずにのって高ぶってしまう姿は「ピノキオの鼻」と同じです。イエス様はそれゆえヤコブとヨハネを戒めました(55)。このことばは「叱りつけた」と訳せる強いことばです。

そもそもイエス様が弟子たちに権威と力を与えたのは、人々を「滅ぼす」ためではなく「救いに導くため」です。ですから二人の高ぶりを戒めたというより、とんでもない思い違いをしていることを戒めたのです。イエス様の弟子たちの最大の罪がここに明らかにされています。それは「傲慢にも人を滅びに定めてしまう」という思い違いです。私たちクリスチャンが、み言葉を語るときは、「福音」(グッドニュース)を語るのであって、「滅び」(バッドニュース)を語るのではありません。イエス様でさえ「滅び」について語る時は謙虚でした。むしろ全力を尽くして、忍耐と愛の限りを尽くして(エペソ618)、「救い」を語り、執り成し続けてくださったことを忘れてはなりません。

イエス様を信じるならば、無代価で永遠のいのちを得ることができます。「もし信じなければ・・」とその先まで語るのは越権行為です。ましてや「信じなければ滅びる」と脅しをかけるのは福音を伝える者にとっては、ふさわしくありません。「おどせば何とかなる」という発想はこの世の常套手段です。神の国というすばらしいゴールをみせて、「さあ、一緒に行こう」と人を招くことが神の国の使者たちにふさわしいことばです。最悪の結末をみせて脅すのは地獄の使者のすることです。永遠の運命を定めるのは神様ご自身です。父と御子以外に誰もその権威をもっていません。ですから、神のなさる領域にまで足を踏み入れてはなりません。イエス様に対するサマリア人の対応は確かに弟子たちが立腹するほど無礼な態度であったかもしれません。それでもイエス様は決してサマリア人を軽蔑したり差別したり、ましてや救いの門を閉ざすことはなさいませんでした。むしろ良きサマリア人の例え話の主人公にされたほどです。スカルの井戸のほとりではサマリヤの女性をまことの救いと礼拝へと導かれました(ヨハネ4:14)。イエス様は決してユダヤ人とサマリア人の間に境界線を引くことはされず、内と外と分け隔てすることをなさいませんでした。「すべての人が滅びることなく永遠のいのちを得ること」(ヨハネ316)が、イエス様の御心であり、十字架上のイエス様の祈りそのものでした。

イエス様の心の中には、一本たりとも敵と味方を分け隔てる境界線は存在していませんでした。

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