【福音宣教】この望みとともに

2022年1月2日 新年礼拝 日本バプテスト教会連合・年間主題聖句

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます」(ロマ824-25

1. 今年度の日本バプテスト教会連合の年間主題聖句として

私たちが所属しています日本バプテスト教会連合(以下、連合)は現在、北海道から兵庫県まで全国に54教会と衛生教会4の58教会、2480名の信徒からなるバプテスト派の連合組織です。教職者は73人、宣教師は3人。アメリカのミネソタ州セントポールに本部とベテル神学校がある「コンバージ」から宣教師が日本に派遣されました。戦後の1948年7月に、日本での宣教が和歌山県勝浦から始まりました。宇治バプテスト教会は1983年3月に連合に加入し、「単立小倉キリスト教会」という名称から「宇治バプテストキリスト教会」に名称を変更しました。

現在の理事会は理事長に倉嶋新牧師(真砂キリスト教会)、総務理事に中野拓哉牧師、教育理事に丸山悟司牧師、国内宣教理事に竹井祐一牧師、世界宣教理事に横田栄牧師、財務理事に松田健志牧師が責任をもって働きを進めてくださっています。小出も財務理事を2期、連合総会議長を15年務めさせていただきました。

バプテスト派の特徴の一つは、それぞれの教会が、上下関係や支配関係に陥ることなく互いの自治独立を尊重し合い、かつ相互信頼と協力関係を保って「教団」組織ではなく「連合体」組織を形成して日本と世界の福音宣教に仕えることです。ですから牧師同士も信徒同士もフレンドリーでたいへん仲が良い人間関係を築き合っています。そうした雰囲気は宇治バプテスト教会にもいつしか広がり、教会の特徴になっているのではないでしょうか。この連合の2022年度の標語がロマ8:24-25節、「希望とともに」です。新年礼拝では毎年ご一緒に学ぶことにしています。

2. この望みとは

パウロは24節で、「私たちはこの望みによって救われるのです」と語っています。この望みとはなんでしょうか。パウロは丁寧に説明しています。「将来、わたしたちに啓示されようとしている栄光」(18)であり、「被造物自体も滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」(21)ことであり、さらには「私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる」(23)とも表現されています。非常にスケールの大きい望みを示していることがわかります。

希望には2種類あります。目に見える希望と目に見えない希望(24)です。目に見える希望の場合は、すでにどこかでモデルが存在しています。あの人のようになりたい、あの人のように生きたい、あのような仕事に就きたい・・・など。クルマ好きの人がベンツを見て「ああ、乗りてぇな」とつぶやくようなものです。中にはあの人のようにだけはなりたくないという否定的希望も含まれますが・・。ところが目に見えない望みとは、いままでまだ誰も見ていない、経験していない、だれも手に入れていない、実現できていない望みを指しています。本当の意味で想像すらできないほどの望みです。

それは「救いの完成」です。「天国に行ける」といった個人的な救いだけではなく、むしろ、神が創造されたすべてのもの、宇宙も自然界も人間もそして教会もが、待ち望んでいる救いの完成であり、神の永遠のご計画がついに実現する「完成」の時を指しています。それはキリストの再臨によって実現すると約束されている「永遠の神の国」の完成であり、新しい天と地の創造を意味します。

3. この望みを忍耐をもって待ち望む

新改訳では「この望みによって救われているのです」と訳されていますが、「救われる」という動詞は不定過去形で記されていますから、一度限りの決定的出来事を指しています。ですから詳細に表現すれば「もう私たちは救われたのです。キリストを信じる信仰によって」となります。すでに死からいのちへと移されてしまっています(ヨハネ524)。すでに、神の国の国籍が与えられており市民権を得ています。それゆえ、必ず実現する日、救いが完成する日を教会は待ち望んでいるのです。クルマンというフランスの聖書学者は、こんな譬えを用いています。ヨーロッパにおける第二次世界大戦は1945年5月のドイツ軍の降伏宣言で歴史的に終結し、ヨーロッパの国々は悪魔のようなドイツの侵略から解放されました。ところが実質的には1年前の1944年6月6日の連合軍によるノルマンディー上陸作戦の成功によって、連合軍の勝利とドイツ軍の敗北はすでに決着がついていたのだと。そうです、すでに2000年前に、カルバリの丘にて、神の御子キリストの十字架の死と復活によって、罪と死とサタンの絶対的な支配権は打ち破られ、神の勝利が確定し、神の栄光がすでに輝いたのでした。「死を滅ぼす」(1コリント15:26)という神の最終目的はすでに達成されているのです。勝敗はすでに決しており、あとは神の国の完成の日(ビクトリーデイ)を待ち望むだけなのです。これが聖書的な歴史観です。

したがって、私たちクリスチャンと教会にとって大切なことは、「忍耐をもってその日を待ち望む」(25)ことです。待ち望む期間に「今の時のいろいろな苦しみ(複数)」(18)を教会は経験することになります。クリスチャンも味わうこととなります。苦難や試練のない人生などはあり得ないからです。「試みにあわせず・・」と主の祈りを祈っていても、試みにあいます。もし祈ってなかったらどれほどの試練にあったことでしょう。だから、あう試練はみんな意味があるのです。

さらに、幸いなことに、信仰は私たちに「今の苦難は将来の栄光にくらべれば取るに足りないこと」(18)と教えてくれます。「とるにたりないこと」と考える(言語は仕分ける・みなす)ように促してくれるのです。信仰が働かないと、「とるにたりないことじゃない。たいへんなことだ、一大事だ、割に合わない、損だ、話が違う!」とばかりに私たちを慌てさせ、まどわせ、信仰から撤退させてしむけるように誘惑してきます。

東京五輪の女子柔道48k級・銀メダリストの渡名喜風南(トナキフウナ)選手のお母さんの口癖は、猛練習に悲鳴をあげる娘に、「死ぬこと以外はかすり傷」とことばだったそうです。名言ですね。かすり傷でさえ、あたかも致命傷のように捕らえてしまう私たちにとっても勇気づけられることばではないでしょうか。

風南さんのお母さん以上に、主イエスは「とるにたりないことだよ」と励ましてくれます。ある訳では「たいしたことはない」とありました。小さなこと、無価値なことという意味ですが、「たいしたことはではない」はわかりやすい表現だと思います。

信仰は私たちの人生を明るくポジティブにしてくれます。前向きな姿勢をつねに育んでくれます。多くの困難も苦難もやがて得る栄光に比べれば「とるにたりないこと」とちゃんと「仕分け」あるいは「計算済とみなし」、力を与えて、私たちを不安や恐れや混乱や離脱から守ってくれるのです。希望はキリストを信じる信仰から生まれ、信仰は罪人さえも愛しぬいてくださる神の愛に触れた時に生まれてきます。こうして愛と信仰と希望が一つとなって私たちの人生を支えぬいてくれます。

この1年間も、この望みに生きる者とされましょう。

主に栄光を帰します。

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