【福音宣教】 みことばは私の足のともしび、私の道の光です

2022年1月1日 元旦礼拝 旧約聖書詩篇100:105‐112

新しい年を迎えました。この新しい1年が主イエスキリストの豊かな恵みの中に導びかれますようにお祈り申し上げます。

詩篇119は「み言葉の歌」と呼ばれています。ヘブル語のアルファベット22文字をそれぞれ8行づつの冒頭に用いているたいへんユニークな作品となっています。「みことば」(105)が、「さばき」(106108)、「みおしえ」(109)、「いましめ」(110)、「さとし」(111)、「おきて」(112)など、8種類の異なることばで表現されており、神のことばが信仰者である作者の生活の中に豊かに働いて、彼の歩みを支えていることがわかります。

1 近くと遠くを照らす灯り

作者にとって、みことばは、「足のともしび、道の光です」と体験的に告白しています。

Psa119:105Your word is a lamp to my feet And a light to my path.」(KJV Psa119:105Your word is a lamp to guide me /and a light for my path.」(TEV

みことばは、見えにくい足元を照らすランプであり、これからの進むべき道を照らし導く光という意味になります。どうも私たちには2種類の灯りが必要です。近くを照らす光と遠くを照らす光。今、足元を照らして危険から守り、安心感を与えてくれる灯りと、これから先どこをどう歩いていけばいいのか行く先を照らし導いてくれる光の2種類。今日流でいえば、生活の中の懐中電灯と人生を導く灯台の光ともいえます。椎名麟三は「人生は地図のない旅を歩むようなものだ」といいました。どこから来てどこへ行くのか、今歩いている道がどこまで続くのか、途切れてしまうのか行き止まりなのか。右へ曲がるのか左へ回るのか・・誰にもわかりません。

確かに人生に地図はないけれど、信仰者にはあかりがあります。地図も灯りもなく、空手で人生を歩むにはあまりにリスクが高いし、私たちは無力です。だからこそ、キリスト者にとって、主イエスご自身がいのちの光(ヨハネ812)となり、神の国に至るまでの人生の道(ヨハネ146)となってくださっている恵みの大きさを、あらためて感謝したいものです。

2. 具体的な状況の中で

では、詩篇の作者がおかれていた具体的な状況をたどってみましょう。

1)私はひどく悩んでいますが(107)、祈りが途絶えることはありまません(108)。主が受け入れてくださるからと、詩人は告白しています。口からの自発的なささげものとは「祈り」と「賛美」を指しています。小さな者の祈りがでさえも、神に届いている。だから安心。安心だから賛美があふれでるのです。

2)私のいのちは病や死に脅かされ、いのちがけでいなければなりませんが(109)、み教えを忘れることはありません(109)。どんな危険にさらされていても、教えを忘れることはなかったと詩人は綴っています。生死をさ迷う厳しい中にも、死の陰の谷を歩む(詩篇23:4)ような中にあっても、神のことばが支えてくれたからではないでしょうか。

3)悪しき者がわなを設けています(110)から、やはりいのちがけでいなければなりません(109)が、迷い出ることはありません(110)。人のことばに責められ、非難され、揺さぶられ、流されてしまいやすいお互いです。しかし、人間のことばではなく、神のことばに信頼する者は、怒りや悲しみや孤独の中に迷い出てしまうことはありません。

4)みことばを永遠のゆずりとして受け継いだ(111)から、こころの喜びです(111)と詩人は感謝しています。「ゆずり」(嗣業)とは、イスラエル12部族に対して神が分け与えられたカナンの土地のことを指しています。アブラハムに語られた約束の地を指しています。残念ながら詩篇の作者の時代には、目に見えるカナンの土地はすでに異邦人に奪われ占領され支配されていたと思われます。しかし、信仰に生きる者にとって、目に見える地上の土地ではなく、神のことばこそが誰にも奪われることも、支配されることもない「ゆずりの地」となったのです。新約時代に生きる教会にとっては、キリストの御国こそが「神からの嗣業・永遠のゆずりの地」となったのです。

5)だから、いつまでも終わりまでも、私はみことばを行うことにこころを傾けます112)と詩篇の記者は決意をあらたにしています。

神のことばを実行することはやさしいことではありません。できるかできないか、できたかできなかったかで判断されれば、みんな不合格!間違いなしです。しかし、神が求めておられるのは「こころを傾ける」ことです。結果ではなくプロセスです。奴隷のように強いられて服従するのではありません。みことばが喜びであり、感謝であり、安らぎだから、「いつまでも終わりまでも」、みことばに照らされ、導かれ、歩み続けたいとこころから願います。「ねばならない」の世界からは自由にされ、「慕い求めている」のです。それが「こころを傾けて」の意味です。

3. 御子イエスキリストのことばに従い

旧約聖書の詩人は、モーセを通して神の民に与えられた律法を神のことばとして、信じ従い、心を傾けました。新約時代に生きる私たちと教会は、御子イエスキリストを通して語られた神のことばを信じ従い、心を傾けます。

ペテロたちがイエス様を信じるだけでなくイエス様の弟子となったきっかけの一つに、ガリラヤ湖での経験がありました。一晩中、網を打って漁をしたのに1匹も取れず気落ちし疲れ切って漁をあきらめ、岸に戻って網を洗っていました。イエス様はペテロに船を出すように命じ、船に乗り込み、少し離れた岸から群衆に向かって、神の国のことばを語り聞かせました。説教が終わった後、イエス様は「沖へ漕ぎだしなさい」と命じ、ある場所で「網をおろすよう」に命じました。プロの漁師が収穫ゼロだったのに、素人とあんたに何がわかると半信半疑だったかもしれませんが、それでもペテロは「でも、あなたのおことば通り、網をおろしてみましょう」と従いました。すると網が破れるほどの大量の魚が獲れたのでした。失意と失敗の空しい夜は、喜びの朝にかわりました。それは「あなたのおことば通り、網をおろしてみましょう」と、御子イエスのことばに心を傾け、従ったからでした。

私たちはしばしば「おことば通り」ではなく「おことばですが・・」と言ってしまいがちです。お言葉ですが・・と100でも200でもできない言い訳を探し出して、こころを傾けるのでなく閉ざしていきやすいものです。

2022年の新しい年、御子キリストのことばに「こころを傾けて」歩んで行きましょう。キリストのことばは「私の足のともしび、私の道の光です」と信じつつ。

「私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩くことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ812

主に栄光を帰します。

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