【福音宣教】おそれないで、ただ信じなさい

2021年11月7日  ルカの福音書8:49-56

ギリシャ人が多く住む異邦人の地ゲラサから帰られたイエス様を多くの群衆が待ち構えていました。その中にヤイロという名のユダヤ教の会堂管理者がイエス様のもとに来て  「一人娘」が死にそうなので助けてくださいと願い出ました。

1. 会堂管理者ヤイロ

ユダヤ教の会堂を管理しそこに集う信徒全体を牧会する立場にある人で、長老たちの中から選ばれた地位も名声もある人物でした。安息日ごとにユダヤ人の会堂で語られたイエス様のことばを、幾度もヤイロは聞いていたと思われます(ルカ4:31以下)。その彼が足元にひれ伏して懇願しました。ひれ伏すという動詞は不定過去分詞形ですから、世間体や外聞も捨てて強い意志や覚悟をもってイエス様を礼拝したことを意味しています。彼の上役にあたるようなユダヤ教の指導者たちが、イエス様を目の敵にして対立しているさなかですから下手をすれば、罷免され地位も職も失うかもしれません。それぐらいの覚悟を決めさせたのは、彼の12歳になる一人娘が危篤状態に陥っていたからでした。父であれ母であれ子を思う親の気持ちの強さにまさるものはありません。ある兄弟は母の日の思い出話しの中で、幼い頃に台風による大水害に見舞われ、人々は屋根の上に逃れたそうですが、その時母親が「この子だけは助けて」と、自分を両手で抱えて屋の上の人に懇願したそうです。母のそのことばが今も忘れられないと語っていました。無力な幼児を虐待し、死に至らしめてしまう事件が後を絶ちませんが、報道記事を見聞きするたびにこころが痛みます。

ヤイロにすれば一刻も早く家に来て娘のために祈ってほしいのに、先週学んだように12年間、婦人病である長血で患っていた女性がイエス様の足を止めてしまいました。どれほど長く感じたことでしょう。きっとやきもきしていたことでしょう。ヤイロにとっては長い忍耐の時間でした。そうこうしている間に、家の使いの者が悲痛な面持ちで悲しい知らせをもたらしました。「お嬢さんが先ほどなくなりました。もう先生に来ていただく必要はありません」と。瀕死の娘を遺してイエス様の元へ駆けつけた父親の一縷(いちる・一筋の糸)の望みもついに絶たれてしまったのでした。がくっと膝から崩れ落ちる姿が目に浮かびますね。

2. 主イエスのヤイロへのことば

この時、イエス様はヤイロに三つのことばを語りました。この3つのことばはまさに福音の中核といえます。

第一は、「恐れるな、ただ信じなさい。そうすれば娘は治る」(50

恐れていることを止めなさい。むしろ「今こそ、この時こそ、ただ信じなさい」(覚悟や決意を強調する不定過去命令形)とイエス様はヤイロにしっかりと伝えました。癒しを信じるのではなく、病も死さえもご支配される神の御子キリスト、「私を信じるのだ」(Only Believe Me)と、強い意志をもって、覚悟をもって信じることをイエス様はヤイロに求めたのでした。

恐れは感情です。信仰は意志です。恐れることは人間にとって自然なことですが、恐れ続けることは多くの苦悩や否定的な人生をもたらしてしまいます。恐れ続ける負の連鎖は信仰によってストップできるのです。
ユダヤ教の信仰からキリストへ、病気の癒しや奇跡を求める信仰から、ただキリストを信じる信仰へ、彼の霊的なスイッチの切り替え、チェンジが求められたのです。ゆるいふんどしの紐のような信仰ではなく、帯をしっかりと締めた信仰へイエス様はヤイロを導いたのでした。

第二のことばは、「娘は眠っているのだ」

娘の傍で治療にあたっていた医者も、ずっと付き添っていた娘の母親も、知らせに駆け出したヤイロの使いも、そして知らせを聞いたヤイロ自身も、その場にいた大勢の人々も「お嬢さんは死んだ」「娘は死んだ」「間に合わなかった」「万事休止」「終わり」と思っていました。しかし、イエス様は「死んだのではない、眠っているのだ」と発言されました。思いもよらない言葉でした。ですから多くの人々が「嘲笑った」(53)と、聖書は記しています。

「死を眠り」と言うのは「永眠」とか「大往生」と同様に、婉曲な表現だと思うかもしれませんが、これこそ「キリスト教における福音そのもの」といえます。「死は眠り」です。ですから終わりでは決してありません。目覚めるときが来るのです。誰によって? キリストのことばによって。そうです、眠りの時から呼び起こされるときが来るのです。

第三は、「娘よ、起きなさい」54)。

イエス様は彼女の「手をとって」、「娘よ、起きなさい」と、大きな声で権威をもって呼びかけました。すると彼女はよみがえったのでした。

当時、死者の手にふれることは律法でかたく禁じられていました(レビ211)。にもかかわらずイエス様は少女の手を「強く握りしめて」命じたのでした。「握って」というギリシャ語は、手をそっと触れるとか、軽く持つとかというニュアンスではなく、しっかり支えて持つ(英語ではHOLD)という意味のことばだそうです。

「死はキリストにあっては眠りです」。やがてキリストの十字架の死と復活によって、死を人類にもたらした罪は十字架で赦され、死の力そのものもキリストの復活によって滅ぼされました。それゆえ、キリストを信じる者たちはみな、安らかに眠りにつき、喜びのうちに目覚めることができるのです。どこで? 永遠のいのちの世界、すなわちキリストの御国においてです。

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(1コリント1554-57

大阪のⅯ牧師のお様の最後のことばは「平安・勝利・はれるや」だったそうです。ドイツの有名なブルームハルト牧師は、今まさに死なんとする人に「あなたはもう15分で神様に会えるんだ。喜びなさい」と言って励ましたそうです。内村鑑三は最愛の娘さんの葬儀で「ルツコさん、万歳」と叫んだそうです。これらのことばは確信がなければ決してかたれないことばです。イエスキリストにある永遠のいのちの希望、勝利を知っていなければあふれ出てこないことばではないでしょうか。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ524-25

最愛の一人娘の死に際してヤイロに語られた三つのことばは、まさに福音の中核といえます。

イエス様は生涯に、3度だけ死者をよみがえらすと言う奇跡を行われました。ナインの村で寡婦の一人息子を(ルカ811-17)、ヤイロの12歳の娘を(826-39)、主が愛しておられたマルタとマリアの弟ラザロを(ヨハネ111-48)よみがえらせ、母に父に姉妹に渡されました。かつてイエス様は「神のことばを聞いて行う者はみな私の父母兄弟姉妹」(ルカ8:21)と言われましたが、「神の家族の絆」は地上における肉体の死をもっても決して切り離せないことを表しています。肉体の死という断絶によって切れた絆を、主イエスは永遠の家族としての絆に再生してくださることを表しています。
             「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

イエスを神の御子キリストと信じる信仰は、恐れの連鎖を止め、永遠のいのちの絆で神の家族を結び合わせてくださるのです。

次週は召天者記念礼拝です。あらためて天の望みに心を向けましょう。 「恐れるな。ただ私を信じなさい」

                                                                                                                                    

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