【福音宣教】 墓場に住む孤独な人の救い
2021年10月10日  ルカの福音書8:26-35

1. 異邦人の地ゲラサ

イエス様と弟子たちは嵐のガリラヤ湖を渡り対岸のゲラサの地に着きました。ゲラサの地は、別名デカポリス(マルコ520)といい、ガリラヤ湖の南東部に位置しており、スリヤ州総督の直轄地でした。そこは多くのギリシャ人が住む異邦人の地でした。 イエス様は弟子たちと共に、初めて異邦人の地に足を踏み入れたのでした。するとそこに悪霊につかれた人が遠くからイエス様を見つけて大声を挙げて向かって来ました。

悪霊に憑かれた男は「いと高き神の子よ、私に何をしようというのです。私を苦しめないでください」(28)と怯えつつ叫びました。このようにイエス様が異邦人の地で最初に出会った人物は「悪霊に支配されていた」人であったことは、異邦人の地域の最大の特徴は「悪霊に支配されている」という霊的な事実であることを象徴しているとも理解できます。

2. 悪霊に憑かれた人物

彼は着物を着ずに裸で過ごし、町に実家がありながら墓場をねぐらにしていました。荒々しいために暴れないように鎖で縛られ監視されていましたが、悪霊による発作が起きると異常な力を発揮して鎖を引きちぎって荒野に飛び出してしまうため、もう誰も彼を制御できませんでした。さらに「夜昼なく、墓場や山で叫び続け、石で自分の身体を傷つけて」(マルコ55)いるありさまでした。全身の傷跡は他人に傷つけられた傷跡ではなく、自分で自分を傷つけた悲しい自傷行為の傷跡でした。後にイエス様が「何という名か?」と悪霊に尋ねると「レギオン」(30)と答えました。レギオンとはローマ軍組織では、6000人の歩兵と600人の騎兵隊からなる1軍団を指すことばです。「血と剣と殺戮」に満ちたローマ軍の兵士6600人が住んでいると名乗る悪霊が住み着いていたとしたらこの人の人生はどれほど悲惨なものだったか容易に想像できます。

彼には両親がつけた本名があったはずです。しかし本当の自分の名を悪霊に支配され失ってしまいました。名を失うことは自分の本質や存在が否定され無視され抹消されることです。代わりにレギオンと名乗る悪霊に支配され、大混乱に陥っていました。悪霊に憑かれた時の悲惨さ、それは「自分の存在」と「価値の尊さ」を喪失してしまうことです。自分が誰かに支配され、乗っ取られ、自分が自分でなくなってしまう。その結果、精神的にも心理的にも大混乱を起こし、生活が破綻してしまうことを意味しています。

彼は裸で生活をしていましたから「羞恥心」などはなかったのでしょう。家があっても飛び出して誰も近寄らない墓場をねぐらとしていました。それは「人との交流を断ち切り」「社会を捨て」「完全に孤立」して生きていたことを意味します。昼夜逆転した生活で、他者との会話を楽しむことも神様を賛美することもできず、「大声で叫びわめき散らす」ことしか、エネルギーを発散する術を持っていませんでした。ひとたび興奮すると、異常な力を発揮し、縄どころか鎖も足かせも引きちぎってしまうので、もう誰も彼を鎮めることも押さえることもできませんでした。「触らぬ神に祟りなし」といいますが、「墓場に住んでもらえば、かえって安心できる」と、町から締め出されていた可能性も考えられます。誰が好んでこのような生き方や生活を求めるでしょうか。ゲラサの地ではもはや、誰も彼を救うことができませんでした。

3. その人から出て行きなさい

レギオンはイエス様に対して「いと高き神の子よ、私に何をしようというのです。私を苦しめないでください」(28)と怯えて叫びました。いと高き神の子とは、多神教を信じる異邦人が、神々の中のもっとも偉大な神に呼び掛ける言葉(橋本滋男)とされています。旧約聖書では異邦人がイスラエルの神を指して呼ぶ場合に使われました(創世1418-20,民数2416,使徒1617)。

いずれにしろ悪霊はイエス様の正体を知っていました。弟子たちが「一体この方はどういう方なのだろう」(25)と戸惑っているにもかかわらず。悪霊は怯えていました。なぜなら、神の御子イエス、このお方が命じると悪霊は居場所を失うからです。レギオン・6600人からなる一軍団と名乗る悪霊でさえ一瞬にして追放してしまう御国の権威と主権を神の御子は持っておられるからです。弟子たちはすでに嵐が吹き荒れるガリラヤ湖で「風や波に向かってしずまれ」とイエス様が叱りつけると、たちまち静まってしまった出来事を経験しました。人はそれを「奇跡」と呼びますが、信仰者は「御子イエスキリストの主権・御国の王たるキリストの権威」と崇めます。奇跡ではなく当然の権威なのです。カぺナウムの地で多くの病を癒し、ガリラヤ湖では自然界を統治し、ついでゲラサの地では悪霊さえ支配するお方、この方こそが御子イエスキリストなのです。
悪霊がどのようにイエス様によって追放されたかは次回に学びます(31-33)。

今回は、悪霊から解放され癒された時、彼は「着物を着て、正気に返って、座っていた」(35)と記されている点に着目したいと思います。裸で暴れまわっていた姿が恥ずかしくなり、穏やかに、静かにイエス様の前に「座る」ことができています。これは私の想像ですが、イエス様は改めて彼に「あなたの名前は何か?」と問われたことでしょう。その時、彼はもう二度と「レギオン」などと名乗らされることはありませんでした。自分の名をイエス様に告げることができたはずです。

4. 人間性の回復

私は「悪霊払いや」「悪霊追放」に関心はありません。むしろイエス様によって「救われる」とはどのようなことかといつも考えさせられています。結論から言えば、イエス様によって「悪霊が追放される」とは、人が「本来のすがたに立ち帰る」ことだと信じています。その本来の姿とは「神の前に座る」「神の御前に生きる」姿、新約聖書的に言えば、「イエスの前に座る」「イエスの前にひざまずく」すがたであると、このゲラサ人の救いを通して深く思わされます。

イエス様が初めて足を踏み入れた異邦人の地ゲラサ、そこは「自分の名前を喪失し、悪霊に魂が支配される」という、偶像礼拝とむなしさの世界であり、孤独が支配する世界が広がっていました。しかし、その暗黒の地にもイエス様は救いをもたらされたのでした。

「悪霊に憑かれた人は精神に異常を来した者のことではない」と東大総長であった矢内原忠雄先生は語っています。それでは悪霊に憑かれるとはどういう人のことだと言えるのでしょう。ホーリネス教団の松木祐三先生は「人生を滅びに至らせる生き方をする者」「滅びにつながるような生き方、罪につながれた生き方をする人」のことですと、著書(ルカ福音書講解)の中で記しています。バランスの取れた理解であり私も同感です。

こう考えると、ゲラサの地の出来事は「悪霊の追放」というよりは「人間性の回復」が主題であると言えます。ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人間は「神のかたち」(創世127)に創造されましたが、「肉の欲と神への不信仰」という罪によって「神のかたち」を失ってしまいました。「人間性の回復」とは、本来の「神のかたち」すなわち神と交わり、神と共に生き、神に委ねられた務めを地にあって行うという、「神の御前で生きる」生活が、キリストによって「回復されること」を意味します。救いとは、そして癒しとは、イエスキリストにあって、「神の御前で生きる本来の人間性」の回復を意味しています。それゆえイエス様は「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ1910)と語っておられます。

詩 56:13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。

詩 62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。 セラ

                                                                                                                                     以上

  目次に戻る