【福音宣教】人生の大逆転

2021年6月27日 ルカの福音書6:22-26

マタイの福音者では山の上で語られた8つの幸福が記されていますが、ルカの福音書では4つに絞られています。ルカは幸いな人として、貧しい人(20)飢えている人(21)、泣いている人(21)、義のために迫害されている人(22)という4種類の人を紹介しています。 一方「哀れな人」として、富んでいる人(24)、食べ飽きている人(25)、笑っている人(25)、みなの人に褒められる人(26)たちの4種類の人について語っています。

今朝は人生の逆転劇をお伝えします。ここには、2種類の逆転劇が記されています。

1. この世的には災いと呼ばれてもキリストにあるなら幸いと呼ばれる逆転劇と

2. 世的には幸いと呼ばれてもキリストにあるなら災いと呼ばれる逆転劇です。

1. 幸いな人

イエス様は「貧しい人は幸いである。神の国はその人の物だから」と語りました。2000年前のイエス様の時代、ユダヤの国の多くの人々は、貧困、飢え、悲嘆、理不尽な抑圧・差別・暴力に苦悩していました。先週、学んだように、ここでの「貧しい」とは無一文の状態を指す言葉です。彼らは頼れるものも誇れるものもない空っぽの状態、完全に打ち砕かれてしまった人を指します。このような貧しい人はもう神様により頼むしかありません。よりすがらなければ生きられない。だから、
「神の国と義とを求めなさい」(マタイ633)というイエス様の招きに素直に応答することができた人々です。その結果、置かれている状況は何の変化がなくても、心の内面に神の国の恵みがイエス様を通して満ち溢れるようになったのです。いいえ、置かれた状況に左右されない、キリストにある平安・希望・愛が満ち満ちていたのでした。これが神の国の福音のもつ恵みの力、いのちの力そのものでした。 

神の義とは、神さまとの正しい関係を意味します。アダムとエバが罪を犯して神様に背を向けて自分たちの価値観や欲望で生きるようになった時から、神様との間に断絶が生じてしまいました。神様との関係は失われてしまい、交わりは破れてしまいました。これを聖書では「罪」と呼んでいるのです。犯罪ではなく喪失を指します。失われた神との交わりを回復するために、神様はひとり子イエス様を救い主として遣わして下さいました。イエス様の十字架の身代わりの死によって背きの罪は赦され、神様との間の深い溝に再び橋がかけられ、神との和解が回復したのでした。

パスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」と語っています。

旧約聖書においても、神に立ち帰ることはまことの「幸いへの扉」をノックすることと呼びかけられています。「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る」(ヨブ2221-23

つまり、幸いな人とは、神のもとに立ち帰ることができた人、そしてそのいのちへの道をキリストの中に見出せた人なのです。「私は道です。真理です。命です。私を通してでなければ父のもとに行くことはできません」(ヨハネ146

貧困、飢え、悲嘆、理不尽な抑圧・差別・暴力は現代人も2000年前の時代と同様に味わっている苦悩です。日本社会では物質的に反映しているために、むしろ隠れている、見見えにくくなっているところに問題があると言えます。私たちに託されているのは「神との和解の中に人々を招くこと」です。

2. .哀れな人

イエス様は「幸いな人」と対象的に、富んでいる人(24)、食べ飽きている人(25)、笑っている人(25)、みなの人に褒められる人(26)たちを「哀れな人」と呼びました。もちろん、裕福な人や家族だんらんを楽しんでいる人、人々から尊敬され賞賛される人をイエス様が非難しているわけではありません。なぜこれらの人が災いなのでしょう。神様の目からみたらなぜ哀れなのでしょう。

彼らは神様抜きでもやっていけると錯覚しているからです。これらの人々は今、「神様抜きでもなんとかやっていける」、そこそこ財産もあるし、飢え渇いて死にそうだという危機的状況でもないし、娯楽やレジャーで毎日、「あはは」と笑って生きているし、この世的には人からうらやましがられるようなゆとりある生活を送っているし、「金持ち喧嘩せず」といわれるほど、精神的にも安定しているし・・・。「神様無しでも平気だし、大丈夫。このままでも何ら問題なし」と、もし、あぐらをかいて安心している人たちです。

ではなぜ「災いだ!」とまで、イエス様は厳しく警告されるのでしょう。なぜなら、聖書は「終末」という、神の審判と神の国の完成の時が確実に来ることを預言し、明言しているからです。私たちの目には見えない「神の大時計」が時を刻んでいるからです。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と命じられたときから、刻み始めたからです。時計の針も音も見えず聞こえませんが確実に進んでいます。

旧約の預言者アモスは「あなたの神に会う備えをせよ」(アモス412)と警告しました。

神の御子イエス様も神の国の到来と神の審判を繰り返し予告されました(ルカ1731-322134)。その日、神の国から締め出され、神の永遠の宴からも締め出されるとすれば(ルカ1328-30)、これほどの悲劇はありません。「あなたがたが外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり歯ぎしりしたりするのです」(28)。

この世で私たちは悔しい思いをしたり、泣いたり、することもあっても、何度でもやりなおすことができますし、悔しさをばねに頑張ることもできます。しかし、終末の最後の日に泣き叫んでも遅いのです。終末における大逆転があることを信じましょう。まだ信じられないという人もいるでしょうが、神を否んで神の国から締め出されることこそが、最も災いであると警告された神の御子キリストのことばを心に留めてほしいと願います。

「イエスがまなざしを向けて災いであると警告しているものはすべて神なき姿、神を侮り、ないがしろにすること」(シュラッター)

「最高の幸せは、かみが共におられることである」(ジョン・ウェスレー)  本当の幸せは、あなたが神に立ち帰り、神と共に生きることの中にあるのです。

預言者を通して神様は約束してくださいました。聴く者は幸いです。

「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。たじろぐなわたしはあなたの神だから」(イザヤ41:10)

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