【福音宣教】神の国の幸いと、この世の幸運


2021年6月20日 ルカの福音書6:20-26

マタイの福音者ではイエス様が山の上で語られた8つの幸福が記されているが、ルカの福音書では4つに絞られています。幸いな人とは、貧しい人(20)、飢えている人(21)、泣いている人(21)憎まれけなされている人(22)、つまり義のために迫害されている人という、4種類の人を紹介しています。

1. イエス様が語られた幸いとは

一般的に、幸い、幸福、幸運などとも表現される言葉は英語でHAPPYと表現されます。ところがこのHAPPYは英語のHAPPEN(偶然、たまたま)という動詞に由来しています。つまり、たまたま手の中に転がり込んできた幸せなのです。買い物帰りのおつりで買った1枚の宝くじで1億円が当たったような場合のラッキーな幸運などです。しかし、あまりに興奮して血圧が上昇し、心臓麻痺で急逝してしまったということにもなりかねません。思わず転がり込んだそういう幸福は、あっというまに転がり出てしまうかもしれません。たまたま手に入れたものの、当てにならない不確かな幸福といえます。

ところがイエス様が語られた幸いは英語でBLESSING(祝福)と表現されます。神様からの祝福を意味します。永遠なる神のみが与えてくださる揺るがない幸いです。教会では礼拝の最後に祝福の祈りがささげられます。「主イエスの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しい交わりがありますように」(2コリ13:13)と神の祝福に生きる幸いが祈られ、教会から家庭に送り出されます。

2. 幸いの人の第一は「貧しい人」20)ですが、貧しさには2種類あります。PENESは「あまり余裕がない状態」の貧しさ。一方、必要な物さえ欠乏している状態で、他人の助けがなければ生きていけない極度の貧しさをPUTOXOSといいます。ここで使われているのほ極度の貧しさです。それは、物だけでなく精神的にもほんとうに何もない状態、心身ともに無一文、頼れるものも誇れるものもない空っぽの状態、完全に打ち砕かれてしまった人を指します。このような貧しい人はもう神様により頼むしかありません。すがらなければ生きられない、だから信仰に向かいやすいのです。そして永遠のいのちを得ることができる祝福に導かれるのです。

事実、イエス様の時代、イエス様を信じた多くの人々は貧しい人々でした。ユダヤ教の指導者と呼ばれる律法学者やパリサイ人はどちらかといえば裕福な人々でした。あるとき、お金持ちであった若者が永遠のいのちを得たいとイエス様のもとを訪ねて来ました。戒律は守っていますという彼に対してイエス様は、「では持ち物を売り払って私に従ってきなさい」と語りました。この言葉を聞くと、彼は悲しげにイエス様のもとから立ち去っていきました。その時、イエス様は「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい」と弟子たちに語りました。

富の豊かさがもたらす幸せは、その富が失われる不安と恐怖と背中合わせなのです。軽井沢マダムと呼ばれ、人がうらやむような優雅な生活を送っていた夫人がある日、夫や子供たちを残して自殺してしまったそうです。発見された遺書には「この幸せをいつ失うか不安でたまらない。だから一番幸せな時に世を去ります」という内容が記されていたそうです。富や名誉や地位といったこの世の幸福のもろさを教えられる悲劇と言えます。一方、世界一貧しいけれど世界一幸せな女性がいました。マザーテレサです。彼女の持ち物は一冊の聖書とサリーと呼ばれるインド女性の普段着数枚だけでした。しかし世界中から多くの献金が彼女のもとに捧げられ、彼女はそのすべてを貧しい人々に分け与え尽くしました。テレサのこころは確かに神の恵みで満たされ、彼女のいる周囲は神の国そのものであったと言われています。

貧しい人が幸いなのは、「神の国がその人のものとなっている」からだとイエス様は説明されました。神の国とは死後の世界、天国を指す言葉ではなく、一義的には「神様のめぐみのご支配」を指すことばです。 イエス様のおられるところ、イエス様の愛と恵みと力が働くところ、それが「神の国」であり、神の恵みが満ち満ちる世界です。その意味で神の国はイエス様を信じる人々の中にすでに実現しているのです。まだ完成していませんが、もうすでに確かに実現しているのです。

3. 幸いな人の第二は飢えている人です。 飢え死にしそうなほど空腹な人にとって一個の握り飯がどれほどおいしいことでしょうか。飢えている人が食べ物を切望するように、神のいのちのことばを求める人はあふれるばかりに満たされ、飽き足りるほどであるという幸いが約束されています。イエス様の時代、律法でがんじがらめにされ、神殿で行われる厳かな礼拝儀式の中に人々は神の救いのことばを見出そうとしましたが見つけることができず、いのちのことばに飢え渇いていました。神の御子イエスが神の国の福音を語り聞かせた時、民衆は「いのちのことば」に満たされたのでした。詩篇12-3では主の教えを喜びとする幸いが語られています。そういう人は「水路のそばに植わった木のように実を結ぶ」からです。神のことばに飢えている人は、キリストのもとに来て、神の国の教えに耳を傾け、いのちのことばに満ち足りることができます
そうです。イエス様に聞いて学ぶ人は幸いな人なのです。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

4. 幸いな人の第三は、今泣いている人です。マタイでは「悲しんでいる人」と記されています。悲しみに打ちひしがれている人以上に泣きじゃくっている、あるいはもう泣くしかない人のほうが、神の助けと慰めを必要としているといえます。悲しみは分かち合うほど軽くなり、喜びは分かち合うほど大きくなると言われます。私たちはさまざまな悲しみの中を歩みます。愛する人を失い、大切なものを奪われ、信頼していた人に裏切られ、誤解されたり、身に覚えのない非難や中傷を浴びせられたり幾度も幾度も涙を流します。

涙が涸れるほど泣いたという人は多くいますが、涙したことなど一度もないという人はいません。そしてそんな人を強い人とは呼びません。むしろ血も涙もない人と呼びます。イエス様は神の御子であられながら人となってこの世に来られ、幾多の苦悩も涙も経験され、誰も負いたくない十字架を負い、十字架の死にまで歩まれました。イエス様は悲しみの人でした。だからこそ、悲しむ者の傍にいて、真の慰めを与えることがおできになるのです。ドイツの詩人ゲーテは「私は涙と共にパンを食べたことのない人と人生はかたれない」と言いました。フランスのルイ16世の王妃であったマリー・アントワネットは「パンがなければケーキをたべればいいのに」と言ったといわれていますが、人々の涙や悲しみや飢え渇きともかけ離れた世界に生きている人に慰めの言葉を見出すことはできません。

驚いたことにルカは、「泣いている人は笑うようになる」と語り、慰めを得るどころか、涙がぬぐわれ、大きな喜び、笑いへと変えられるとまで言い切っています。これが天国の力です。イエス様により頼むならば、嘆きを踊りに変えられるほどの恵みが働きはじめるのです。これを幸いと呼びます。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変えてくださいました」 (詩編 30:11

ヘンリー・ナウエンの名著「嘆きは踊りにかわる」の序文には「苦難にあるときこそ、神に働いていただこう。どんなに動作がぎこちなくとも、喜びのダンスに加わろう。 痛みと苦しみの闇に囲まれ、漆黒の夜に閉じこめられたとしても、そこには、神との喜びのダンスへと導かれる道がある。」と記されています。キリストにあるならばその経験をさせていただくことができるのです。

5. 幸いな人の第四は、キリストの名のために、迫害、いやがらせ、非難、中傷、屈辱を味わうような人です。彼らに対して「天で受ける報いは大きいから喜びなさい」とイエス様は約束してくださいました。地上だけの生活がすべてならば、このような人はみじめなままです。人から踏みにじられてばかりの人を「ドアマトット」と表現します。だれもドアマットのような人生を過ごしたいとはねがいません。自分の名がプライドが傷つくことにがまんできません。しかし、イエスの名のゆえに私の名が汚され、さげすまれようと、なんのことはありません。すべてはこの世のことにすぎないからです。地上のことだけでなく天上の生活、神の国を待ち望むことができる者にとっては、小さなことなのです。天を見上げることができること自体がおおきな恵みではないでしょうか。キリストと共に生きること、ここに幸せがあるのです。信仰とは、イエスと共に人生を歩むことです。そしてその歩みの中にある、救いの幸いを味わうことなのです。

 「神があたえてくださる救いの義の完成を慕い求めて生きる人は幸いである」(ロマ117)

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