【福音宣教】 私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た

2021年5月23B ルカの福音書5:27-32

イエス様はガリラヤ湖の岸辺で漁師であったペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの4人の若者を弟子として召されました。さらにカぺナウムの町中でもう一人の弟子を、「私について来なさい」(27)と招きました。彼の名前はアルパヨの子(マルコ2:14)レビ、そして収税所(税務署)に勤務する人物でした。当時、ユダヤ国民はローマ帝国とユダヤ国家に2重の税金を納めねばなりませんでした。いつの時代でも国に税金を喜んで納める人は少ないのではないでしょうか。ましてや異邦人のローマ皇帝に貢物として税金を納めるというのはユダヤ人にとっては屈辱でした。さらにその片棒をかついで同胞から税を無理やりしかも暴利をむさぼって取り立て、私腹を肥やしているような収税人は裏切り者であり、文字通り盗賊や人殺しと同じ「罪人」と呼ばれ、憎まれ軽蔑され差別されていました。それゆえ、彼らはユダヤ教の会堂に入ることを禁じられていたほどでした(バークレ―)。ですから収税人の職につこうとすること自体が、おおきな覚悟を必要としたのです。

1. レビの召命

前回はイエス様のもとに連れてこられた中風の病人でしたが、今回はイエス様が訪ねておられます。イエス様はレビを「じっと見て」(27)、声をかけました。イエス様は何をご覧になったのでしょう。お金を扱うロマ政府の出先の役人ですからきっと頭もよかったのでしょう。他の人々と比べると桁外れ髙収入でした。エリコの町のザアカイのようにうまく立ち振る舞えば町一番の大金持ちにもなれます。有能なレビはこの世的には成功者でした。多くの人を自宅に招き盛大な宴会を開くことができるほどの立派な家を建てるほど、富を得ていました。それほど裕福でしたが、彼はそんな生き方に悩んでいたのではないでしょうか。この仕事に生きがいを見出していたのでしょうか。彼の心には虚しさが漂っていたのではないでしょうか。イエス様はじっと彼の心の中をご覧になり、「ついて来なさい」(FOLLOW ME)と呼びかけたのでした。このイエス様のことばが彼の人生を決定づけました。ロマ皇帝でもなく、収税所の長官にでもなく、親兄弟でもなく、ましてやお金様にでもなく、レビはイエス様の声を聞き、イエス様についていく道を選んだのでした。

レビは後にマタイとイエス様から呼ばれ、その賜物をもちいてイエス様のご生涯をつぶさに書き残しました。それが「マタイ福音書」です。

2. レビの開いた宴会

レビは「すべてを捨てて」立ち上がり税務署を退職し、イエス様についていきました(28)。彼は感謝に気持ちを表そうとイエス様のために盛大な晩餐会を開きました。確かにこれはレビにとっても友人知人や仲間たちとのお別れパーティでもありましたが、何よりも「イエス様」のための食事会であり、イエス様への最初の奉仕でした。そこには「大勢の人々」が集まって来ました。レビは決して社会から孤立していた存在ではなかったようです。収税人として仲間意識をもち、人間関係も築いていたようです。ですからレビが招いた人々の中には収税所の仲間、上司や部下たち、関係者たち、大きな邸宅に住んでいたので両親や家族、使用人たちもいたと想像できます。イタリア映画のマフィア一族のように団結力があったのかもしれません。とにかくレビは一人でも多くの仲間たちにイエス様のことを知ってもらいたかったのでしょう。

そんな様子を見ていたパリサイ派や律法の専門家である学者たちは、イエス様の弟子たちの行動や言動を見て、批判しつぶやき続けました。マタイ9:11では、「どうしてお前たちの先生は収税人や罪人たちと一緒に食事をするのか」とはっきりと矛先をイエス様に向けて非難しています。聖職者を自認する彼らには考えられない交わりだったからです。イエス様が収税人と共に食事をし、罪人と呼ばれていた遊女や羊飼い、重い皮膚病の患者たちとも平気で交わり、時を過ごす姿を見て驚きました。彼らとは分離すべきであり、交わってはならないと禁じられていたからでした。イエス様の言動がすべて掟破りの信じがたい行為だったからです。

ルカ734では「あれは食を貪る者、大酒を飲む者、また収税人、罪人の仲間だ」と、イエス様への非難がさらにエスカレートしています。

3. イエス様の招き

イエス様は「健康な人には医者はいらない。必要とするのは病人たちである。私が来ているのは(完了形)、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(31)と答えました。これこそ救い主イエス様がこの世界に人となって来られた目的でした。父なる神様がついにひとり子をこの世界に遣わしてくださった目的でもあったのです。

ルカ1910では、「人の子は失われた者を捜して救うために来た(アオリスト 決定的な出来事をさす動詞です)」と、取税人の代表者、罪人の頭ともいえるようなエリコの町のザアカイとその家族を救いに導かれた時のイエス様のことばが記されています。

自分は正しい、りっぱだ、まじめな生き方をしている、犯罪者ではない、神様の前に後ろめたい思いなどひとかけらもないと豪語できる人は、罪の赦しも必要ないことでしょう。「清く正しく美しく」(宝塚音楽学校の校訓であり、宝塚歌劇のモットーですが・・)生きている人には、罪からの救い主など必要ないことでしょう。しかしいったいそんな完全な人間はどこにいるでしょう。理想であっても現実は反します。

聖書は「すべての人が罪をおかしたので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリストイエスによる贖いのゆえに、価無しに義と認められる」(ロマ3:23-24)と記しています。

私たちは、自分もひとりの罪人であると気づいたからこそ、イエス様のもとに来たのです。いいえ、イエス様のもとに来ることができたのです。イエス様が私たちを拒まず、受け入れてくださり、仲間と呼んでくださり、友と呼んでくださり、「罪人」としてではなく「失われた人」(神のもとから迷い出た者)とご覧になってくださったからこそ、イエス様の前に、自分をごまかさず、とりつくろわず、ありのままの姿で来ることができたのでした。

私も教会を訪れた50年前のクリスマスの日に、「飼い葉おけに等しい汚れた心の中に、神の御子イエス様は生まれてくださったのです」という言葉を聞いて、救い主をこころに迎えました。イエスキリストが遠い世界の人ではなく、私の傍らに共にいてくださる「罪人のための救い主」として理解することができたのです。もし「清く正しく美しい人」が天国に入れると言われたら、私は教会を去っていたことでしょう・・。イエス様のもとにさえ「居場所」を見出すことができなくなったことでしょう。

今日はキリスト教の暦ではペンテコステ記念日です。エルサレムの2階座敷で祈っていたキリストを信じる者たちの小さな群れに、約束されたキリストの御霊がくだり、エルサレム教会が誕生した教会の創立記念日とも言えます。彼らもまた「健康な人には医者はいらない。必要とするのは病人たちである。私が来ているのは(完了形)、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(31)と、イエス様に招かれたひとりびとりだったのです。 医者がいるのは病人です。そして、罪の赦しを必要としている者にはイエス様が必要なのです。イエス様の十字架のなかに、豊から神の恵みを見出し、神への讃美にこころ見たされるのです。

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