【福音宣教】 最大の希望 死は勝利にのまれてしまった

20210404 イースター礼拝  第一コリント15:50-58

本日はイースター礼拝、十字架刑を受け、死んで葬られたキリストが生前の約束通り、そして旧約聖書に預言されていた通り、3日後に復活されたことを記念する特別な礼拝日となっています。今年は特別な思いで私たちはイースター礼拝に臨んでいます。2年以上にわたって続いているコロナ感染拡大で、日本でも9000名、世界で278万人もの人々が亡くなりました。私たちは2つの事実にしっかり向き合わなければなりません。

ひとつは、「人は必ず死ぬ」という事実、もう一つは、キリストがただ一人「死の力を打ち破ってよみがえられた」という事実です。死の事実だけしか認められない人々の人生観と復活の事実を受け入れる人々の人生観は大きく異なります。

1. 人は必ず死を迎える事実

「生涯をかけて学ぶべきことは、死ぬことである」(セネカ)、「生まれるということは死ぬ ということの約束であって、 死も格別驚くことではない」(福沢諭吉)。

私たちは「おぎゃ」と生まれた時から「さよなら」を言う準備をしているといえます。「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」と、一休和尚は言いましたが、臨終に際して「わしゃ、死にとうない」と弟子たちを困らせたそうです。

なぜ人間は死を迎えるのでしょうか。生命科学的な立場からはひとつのこたえが出ているようです。人間の身体は「約60兆個といわれ、そのなかのおよそ200分の13,000億~4,000億個の細胞が気づかないうちに毎日死を迎えています。これを質量にするとおよそ200グラム、嵩(かさ)にするとステーキ一枚分にもなります。しかし同時に、細胞は細胞分裂により新たに補給もされています。生涯を通して日ごとに死んでゆく細胞の数は変わりませんが、それを補う細胞の再生が加齢とともに少なくなります。高齢になると体が小さくなるのは全体の細胞数が減るためです。再生系の細胞はもとになる細胞(幹細胞)が増殖して役割を終えると老化して死んでゆきます。ところが、それを永遠にくり返すわけではなく、私たちのヒトの細胞の場合、このサイクルを60回くらい周ることができて、その後、寿命が尽きます」と、東京理科大学薬学部教授・ 田沼靖一先生は語っています。) 

このサイクルをさらに伸ばすための薬も開発されていますが、その場合は細胞分裂を無限に繰り返すかわりに、健全な細胞が癌細胞に代わって死をもたらしてしまうそうです。つまり、人間のからだには「死ぬ」遺伝子が組み込まれているのだそうです。 なぜでしょうか? だれにもその答えを出せません。それは認めて受け入れるしかない事実なのです。

ところが聖書は「罪の支払う報酬は死である。しかし神の贈り物はキリストイエスにある永遠のいのちである」(ロマ623)と教えています。今日の箇所でも、パウロは「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものはくちないものを相続できません」(1コリ1550)と断言しています。罪の赦しと永遠のいのち、朽ちていく血肉のからだと朽ちないく天のからだ、つまり復活の身体について語っています。キリストにあって眠った者は、「死者は朽ちない者によみがえり、私たちは変えられるのです」(52)と書かれているように、キリストの御国である天国にふさわしい、そして永遠のいのちにふさわしい「天上のからだ」(40)、栄光あるもの(42)、御霊のからだ(44)によみがえらされると聖書は告げているのです。

2. 事実、キリストはよみがえられました(口語訳)

イースターは「事実、キリストが死からよみがえられた」という世界最大のビッグニュースが伝えられた日(1コリント1520)です。それは、人々が受け入れようと受け入れまいと、否定できない事実です。ですから、聖書から復活の記事を省いてしまえばもう聖書でなくなってしまいます。キリストの十字架の死で閉じられる悲劇の書物にすぎなくなります。教会がキリストの復活を語らなければ、教会はもはや教会ではなくなり、愛を説く道徳集団や善い行いを広める文化活動団体にすぎなくなってしまいます。

すでに2000年前、キリスト教会への最大の迫害者であったパウロは、「ナザレのイエスがメシアであり、十字架で処刑された後に復活したなどと宣教し、神を冒涜し民衆を惑わす危険な輩たちだ!」と殺意に満ちていました。ところが復活されたキリストと出会って人生と価値観が一変してしまいました。その結果、彼はローマ帝国の各地に、「キリストの十字架の死と復活」の出来事を、いのちをかけて語り伝える宣教師となったのでした。
もし、復活がなければ、我々の信仰は空しく(17)、キリストにあって眠った者は滅んでしまった(18)のであり、その希望は泡と消え去り、クリスチャンは世界一哀れな存在(19)にすぎず、キリスト教会は危険で最悪な嘘つき(15)集団と糾弾されても当然だとまで使徒パウロは言い切っています。

私たちもまたパウロと同じく、「キリストは死の力を打ち破りよみがえられた救い主です」と、喜びの知らせを聴くために、死ぬべきこの世にあって、召し集められたことを覚えましょう。「死はすべての終わりだ」と主張するこの世界の中で、「キリストの復活」の知らせを聞かなければなりません。聞いたからこそ、初めて喜びと感謝をもって復活のキリストとその希望を人々に伝えることができるのです。

3. 復活の希望を抱いて今を生きる

20歳でアップルコンピューターを立ち上げたスティーブン・ジョブズ(享年56歳)が、スタンフォード大学の卒業式で学生たちに語ったお祝いの言葉は伝説のスピーチと呼ばれています。これは彼が50歳で脾臓癌の大手術を受けた後での講演ですが、「私は死を考えることは有益だと頭だけで考えて言っていたときよりも、少しだけより確信をもって、あなた方に言うことが出来る」と若い卒業生たちに率直に語りかけました。
誰も死にたい人はいません。天国に行きたい人も死を望んではいません。それでも、死は皆が向かう終着駅です。死を免れた人はいません。そして、それはそうあるべきなのです、なぜなら死は生物の唯一最高の発明(革新)だからです。the single best invention of Life。 それは生き物を循環させるものです。死によって古いものが新しいものに道を譲るのです。」 ジョブズは、生命にとっての死は最高の発明だというのです。死に対して彼は否定的な評価をくだしていません。つぎのことばからも明かです。

彼は17歳の時に「もし、あなたが毎日を人生最後の日のように生きるなら、いつかまさしく、その通りになる。」という言葉と出会い、以後33年間、毎朝、鏡を覗き込みながら自分に問いかけたそうです。自分はいずれ死ぬのだと考えることは、人生において大きな選択をするときに、自分を助けてくれる、今までに出会った最高のツールとなる。なぜなら全ての期待、全てのプライド、恥じをかくことや失敗への全ての恐れなどは、死を前にすれば、なんでもなくなり、本当に重要なことだけが残るから」語っています。 彼は若い時から、すでに「死というゴールから、今を考えた」人物なのです。彼は、若くして「発想の大転換」を経験しています。

100人の人間がいれば100通りの死生観があると思います。あなたにとって死を考えることは生きることを考えることにほかなりません。死の存在は私たちのアイデンティティを深めます。あなたはどう死ぬためにどう生きようとしていますか? 作家の村上春樹も「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」と鋭く、見抜いています。死の中の生、生の中の死を考えさせられます。

パウロは「私にとって生きることはキリスト」(ピリピ1:21)と語り、地上の生を超えて、永続するものは「信仰と希望と愛」(第一コリント13:13)であるといいました。 あなたはいかがでしょうか?

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