【福音宣教】 あなたの教会・家庭・仕事の水平分度器

ルカ438-44   20210418  ペテロの姑を癒された主イエス

イエス様の宣教は「神の国」の「宣言」と「ご支配」の実践でした。神の恵みのご支配が聖霊の働きによって目に見える形で人々の中に始まっていきました。ユダヤ会堂の中では悪霊につかれた男性が解放されました。続いて「病気で苦悩している人々」を癒されました。悪霊からの解放も(441)、もろもろの病気の癒しも(440)救い主のみわざであり、地上においても神のご支配がいよいよ始まったことを証明するものでした。

「ほかの町々にもどうしても神の国を宣べ伝えねばなりません」(43)そのために、イエス様は神の言葉の権威をもって悪霊に叱りつけ、もろもろの病を癒されたのでした(40)。

1. ペテロのしゅうとめを癒す

イエスは「シモン」の家に入られ(38)、しゅうとめの熱病を癒されました(39)。イエス様はガリラヤ湖のカぺナウムの町で後に弟子となった漁師の若者たち、とくにシモンと兄弟のアンデレともすでに親しい交流をもっていたようです。マルコではすでに彼らが弟子になっていたことが記されています。「姑」とありますからペテロの妻の母親を指します。ペテロはすでに結婚をしており、妻の母親とも同居していたことがわかります。イエス様は後にペテロを「人間をとる漁師にしてあげよう」(10)と弟子として従うように招きました。さらに弟子たちには「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14:26)と決意を語り掛けました。

しかしそれは、家庭を顧みないことではありません。家族を犠牲にして伝道に明け暮れることでもありません。クリスチャンの優先順位として「教会・家庭・仕事」としばしば言われてきました。しかし、この3つは優先順位をつける対象ではありません。この3つは対立するものではありません。この3つはひとつなのです。ですからバランスをとる対象でもありません。父、御子、御霊なる神を私たちが信じて生きていくように、教会も家庭も仕事も本来一つであり、切り分けるものではありません。時間やエネルギーやボリュームをどう配分するかというバランスグラフのイメージよりも、水平分度器のように偏っていないか、傾いていないかをチェックする「水平分度器」のようなイメージをもつことがふさわしいと思います。私たちの人生のステージは年代ごとに常に変化していきます。一人一人が置かれている状況の中で、分度器がチェックされれば、高さ低さの差は当然ながら生じます。それを「かつてはできていたが今は不信仰でできない」と判断して自分を裁くのではなく、割り振ることができる時間もエネルギーも常に変化していくものですから、むしろそこに「偏り」が生じていないか、ひずみが起きていないかに焦点をあてて、生活を整えてみましょう。

イエス様はいよいよペテロが漁師の仕事を終えて、イエス様とともにユダヤの国を行き巡る伝道旅行に旅立つことができるように、姑の熱病を癒して、彼や妻の心配を取り除いてくださいました。ですから、ペテロは親や妻や家庭を「捨てて」伝道旅行へと立ち去ったのではありません。イエス様は、ペテロの妻や姑を救いに導き、病を癒し、感謝と祈りと共に、夫であり、義理の息子であるペテロを神の御国の働きのために「送り出す」家族としてくださったのでした。事実ペテロの妻は信者であることが明記されています(第1コリント95)。

血肉の家族を神の家族に整え、神の国の働きのために送り出す神の家族とされたのでした。

この姿勢はイエス様の神の国の働きのいつも中心にありました。ヨハネ福音書には7つの奇跡が記されていますがその最初は「カナの村での結婚式」が舞台でした。祝いの葡萄酒が切れてしまったとき、水を最高の葡萄酒に変える奇跡を通して、新しく家庭を築く二人の門出を祝福してくださいました。十字架で死なれるときも、老いた母マリアをヨハネに「これはあなたの母です」と、託されました。弟や妹がいたにもかかわらず、母マリアをヨハネに、いわば神の家族に託されたのでした。イエス様にとっては、家族も隣人もユダヤ人も異邦人もみなひとつであり、区別などありませんでした。自分の家族を顧みない者(1テモテ5:8)は神の国にふさわしくないといえます。神の国の民は「教会・家庭・仕事」の中で生きるのです。あなたの「水平分度器」は神の国の市民としてふさわしいでしょうか。

2. 一人一人への配慮

40節をみるとイエス様は多くの人々の病を癒されました。日が暮れてからもますます忙しくなられました。安息日には病人を連れてくることが許されませんから、夕方に安息日が明けるや否や大勢の病人が運ばれてきたのでした。食する暇もなく眠る時間も惜しまず「癒しのわざ」を続けられました。医師法には第19条第1項で「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合、正当な事由がなければ拒んではいけない」という「応召義務」が規定されていますが、イエス様の姿がその原型かもしれません。40節をよく読むと「ひとりひとりに手を置いて」という表現に気づきます。イエス様は「集団的癒し」をなさっておられません。5000人、7000人の群衆に神の言葉を語り聞かせ、たった5つの小さなパンを食べ残りが出るほど分かち与えるという奇跡をおこなわれましたが、100人を一度に、1000人を一度に「病気の癒し」を行われたことはありません。いつも「一人一人でした」。確かに一度に10人のレプラ患者(ルカ1712)を癒されましたが、イエス様のもとに帰って来て感謝し、礼拝したたった一人のサマリア人だけに、「行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです」(19)と救いに導き入れ、体だけではなく魂の救い、永遠のいのちを与えられたのでした。肉体の病を契機に永遠のいのちに気づかせ、神の国へと導かれたのでした。イエス様の場合には、肉体の癒しと罪の赦しと救いはひとつに結び合わせられています。

さらに、イエス様の救いのみわざはいつも「一人一人」です。けっしてマス、大衆、群衆、集団を対象にしていません。一人一人とは、単に人数のことを指すだけではなく、一人一人を「大切に尊ばれる愛」を示しています。人間の愛は10人いればその中の秀でた人、一人だけに注がれがちです。しかし、神の愛は10人いれば10人一人一人に注がれます。もし100人いれば人間的な愛は100等分されて結果的には薄められてしまうかもしれません。しかし神の愛は100人いても100等分の100の愛が一人一人に注がれていきます。神の御子イエス様の愛は、つねに一人一人に個別にそして100%の神の愛が注がれていくのです。私たちもそのように見出され愛されたのです。何年経とうとイエス様の愛はかわりません。キリストの愛は一人一人の日常の歩みに変わることなく注がれているのです。

同じように、現代においても、「神の国に導かれる人々」は一人一人から始まります。コロナ禍で今、イベント的プログラムを計画できないもどかしさのなかに1年以上置かれています。牧師の仕事量も増えてさすがに少々疲れてきています。一度に多くの人々を対象にしたイベントなどはある意味で効率的な方法という面も強くあります。もう一度、私たちはイエス様の福音宣教の原則でもあり、モデルを示してくださった「一人一人」の精神を大切にして、キリストのもとに、神の国の福音へお招きしたいと願います。あなたの身近な家族、友人、知人に「神の国の福音」を紹介しましょう。

そのために必要なことは「祈り」(42)ではないでしょうか。イエス様も朝毎に、祈られました。イエス様は働きが忙しければなおさら祈られました。問題が大きければなおさら祈られました。祈りは継続です。 祈れば神の平安が来ますがまたしばらくすらb人間的な不安が湧き上がってきます。だからまた祈るのです。平安と不安の上り下りの峠道を、祈りつつ歩むのが私たちの地上の旅路、信仰の旅路の実際といえます。

主イエスの「一人一人への愛」に信頼しつつ、神の国の福音に生かされてまいりましょう。

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