【福音宣教】荒野の誘惑と勝利

20210314 ルカ4:1-13

今朝の礼拝は、2年間の交わりを持ち留学生活を終えて韓国に帰国される全さん、元さんご夫妻が京都からプサンに、そしてコロナ対策で尽力してくださったジョイさんと看護師の木田さんご夫妻が京都から山口県柳井市に転居されるので、送別礼拝となりました。

みなさんも私もさみしい思いでいっぱいです。人生は出会いと別れ、別れと出会いを繰り返しながら綴られていきます。しかし天国に国籍をもつクリスチャンにとって、ゴールは天国での再会ですから、また会う日を心待ちにしましょう。もっともラインやZOOMでいつでも、必要なら毎日でも顔を見ることができますから、これからもともに、祈り合ってまいりたいと思います。私たちは神の家族ですから。家族に距離や国境はありません。

バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられたイエス様は、御霊に満たされ、救い主としての公の働きへと進みだされました。投獄され獄中で殉教した預言者バプテスマのヨハネは民衆の前に姿を見せることはもはやありませんでしたが、いよいよイエス様が救い主として民衆の前に現れ、神の言葉を語り始めました。夜に輝く月に代わって、朝に太陽が照り輝くように。

イエス様はまず、40日間、荒涼とした砂漠地帯、荒野に身を置き、祈りと断食をもって備えをなさいました。救い主の登場に最も恐れを抱いていたのは悪魔(サタン)でした。結論的に紹介しますと、サタンは救い主であるイエス様が、十字架の道を進まれることを何としても阻止しようと3つの誘惑をしかけてきました。

それは石をパンに変えて貧しい人を救え、世界の富をもって世の中を豊かにしろ、変えろ、宗教的な奇跡をもって人々の願望を満たせという誘惑でした。

1. 人々の空腹を満たす救い主であれ(3

第一番目の誘惑は荒れ野に転がっている無数の石をパンに変えて、飢え渇いている民衆の胃袋を満たせ、「もしあなたが神の子であるなら」、それはたやすいことであろう。人々が求めるのは現実的、実際的な助けであり、救いであるというものでした。貧しい人を施しをもって助けよ、救出せよ、飢えさせるな!確かに説得力をもっています。

ところがイエス様は「人はパンだけで生きるのではない」と申命記8:3のみ言葉をもって応答しました。確かに人はパンなくして生きられません。しかしパン以上に必要なのは愛であり、魂の救いであり、自分が必要とされている喜びです。内村鑑三の弟子であった塚本虎二はここを「人はパンが無くても生きられる」(福音書・岩波文庫 松木祐三)と思い切って訳しました。パンがなくても生きることができますが、もし愛がなければ人は生きていけません。来日したマザーテレサが残したことば「孤独こそ貧困や癌にまさる最大の悲劇です」が印象的でした。

人はパンだけではなく、神が与えてくださる「いのちのパン」(ヨハネ635)を必要としています。いのちのパンとは、神との和解によってもたらされる神とのいのちの交わりを指します。十字架にかかられたイエス様は罪の赦しを与え、神との和解の道を備えてくださいました。

ヨブ2221-23 「神とやわらぎ平和を得よ。そうすればあなたに幸せがくる」 

2. この世の富と権力をもって世界を豊かに満たす救い主であれ(7) 

第2番目の誘惑は、サタンを拝むという偶像礼拝です。「もしわたしを拝むならこの世の富、権力をすべて与えよう」と。これも確かに説得力を持ちます。サタンは「物質的に豊かになり、社会が発展し、繁栄すれば人々は幸福になる」とバラ色の世界を見せます。これは、お金を神と仰ぐ拝金主義の世界を意味します。

私は戦後生まれの昭和世代ですから、初めての洗濯機や冷蔵庫やテレビの登場に驚いた、まさに「AIIWAYS三丁目の夕日」の生活を経験している一人です。確かに物質的に豊かに便利に早くなりました。でもそれとともに心も豊になったかといえばそうではありません。みんなが貧しかったけれどもみんなで助け合って生きていた、みんなが家族であったように思います。物の豊かさはこころを貧しくした一面があります。偶像に仕え、金に仕えた人生の虚しさを放蕩息子のたとえ話やエリコの町の金持ちザアカイの救いを通して、イエス様は私たちに教えてくださいました。

イエス様は「神を拝み、神のみに仕えよ」と申命記616のみ言葉をもって、偶像礼拝と拝金主義を退けました。

3. 奇跡を起こして願望を満たす救い主であれ(9

第3番目は、エルサレムの神殿の頂上から飛び降り、御使いがいのちを守るという奇跡を見せれば民衆は熱狂し、メシアとして崇めるだろうとの誘惑です。十字架の道を歩んでも民衆は関心も感謝も感動も持たず、つまずくだけではないか、それより奇跡やご利益を信仰の中心に据えてはどうかという誘惑です。考えれば奇跡を売り物にする宗教はごまんとあり、人々はごまかされ、惑わされています。サタンはこの点では大成功をすでに収めています。奇跡中の奇跡といえばキリストの復活です。にもかかわらず、神のなさった最大の事実である「復活」を受け入れ、信じる人々のいかに少ないことでしょう。

イエス様は神殿の頂上から飛び降りるどころか、もっと低いカルバリの丘の十字架からおりることさえ拒みました。「もし神の子なら自分を救ってみろ。十字架から降りてこい」(マタイ2740)との群衆のあざけりにも動じず、むしろすべてを耐え忍び、「死に至るまで父なる神の御こころに従われた」(ピリピ28)のでした。

イエス様は「神を試みてはならない」と申命記616のみ言葉をもって悪魔の誘惑を拒否しました。試みるとは疑うことです。疑うのではなく、信頼し信じきって歩むことです。信仰の本質はご利益の中にではなく、神への従順な歩みの中にあるからです。

4. みことばに立つ勝利

三番目の誘惑でサタンはなんと、聖書のことばを用いてイエス様に挑戦してきました。かつてエデンの園でもサタンは「本当に神はそう言ったのか?」とアダムとエバに向かって語りかけ、揺さぶりをかけました(創世記31-4)。何度も悪魔は同じ手を使ってきます。けれどもイエス様は、神のことばの正しい解釈に立ち、かみのことばの権威に信頼して、サタンの揺さぶりを退けました。
「聖書にこう書いてある」とは、サタンを退ける最大の武器です。そのために、みことばをこころに豊かに蓄えましょう(コロサイ
316)。心の倉庫が空っぽになっていては立ち向かえません。

悪魔はイエス様から「一時」(13)立ち去りましたが、折をうかがって再挑戦してきます。私たちの信仰生活は誘惑や試練からの完全な解放ではありません。常に試みられ、常に迷い、しばしばつまずき倒れますが、そのたびに、みことばに支えられ強められ、十字架のもとへ帰って行く繰り返しです。そして、神のめぐみは試練を「学びの時」としてくださるのです。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです」詩篇11971-72)

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