【福音宣教】 主の恵みの年を告げ知らせる

20210321 ルカ4:14-21

荒野におけるサタンの試みを退けられたイエス様は、いよいよガリラヤ地方で神の国について宣教を始められました。イエス様が幼い時から育った故郷のナザレに行かれ、安息日にユダヤ教会堂に入られた時のことです。ユダヤ教会堂では、ラビと呼ばれる教師が聖書を朗読し、説教をする習わしがありました。会堂管理者は、ラビではありませんがすでにガリラヤ地域で民衆から敬まわれていたイエス様が来られたので、イザヤ書の巻物を渡しました。するとイエス様はイザヤ61章1-2節を開かれ朗読されました。何をお話になってくださるのかと大きな期待を抱いて、会衆の目が一斉にイエス様に注がれました。

1. 今日、このことばが実現しました

驚いたことに、イエス様は説教や解き明かしではなく、「今日、このみことばが実現しました」(21)と明瞭に「宣言」されました。イエス様が朗読されたイザヤ書は「メシア預言」の箇所ですから、この預言のことばが今日、実現したとイエス様は宣言されたのでした。つまり、「この私が約束されたメシア」であることを、権威をもって語られたのでした。

イエス様の語ることばは、神の国の宣言であり、福音の宣言でした。イエス様が語る時、聞く人々は驚きました。なぜなら「そのことばに権威があったからです」(32)。他の福音書でもイエス様の宣教の第一声は神の国の到来についての宣言でした。

マルコでは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(115)、

マタイでは「イエスは宣教を開始して言われた。天の御国が近づいたから」(417)との言葉が記されていますが、これらもまた「宣言」といってもよいでしょう。

4章18節では「告げ知らせる」と訳されたことばが2種類用いられています。「福音を伝える」と「告げるために」。前者は「福音・よろこびの知らせを分かちあうために」というニュアンスがあり、後者は「宣言する、布告する」という意味があります。たとえば、戦いで勝利した知らせを伝令が都に駆けこみ、大声で王や民衆に伝えるような場合です。権威をもって堂々と公に宣言する、公布する、布告するという意味で用いられています。

イエス様のことばは、真理であり、神からの宣言として「聞いて、そのまま受けとめる」ことが求められます。それが正しい聞き方といえます。人間的な知識や詮索や理屈をこねて、納得して了解するという類のものではありません。権威ある神の宣言として、しかも喜びに満ち満ちた良き知らせGOODNEWSとして、受けとめるときに、測り知れない神の恵みの力が発動して、聞く者の人生に変革をもたらすのです。

2. メシアの4重の働き

イザヤ61章では、神が遣わしてくださるメシアの4重の働きが語られています。「囚われ人に赦免」「盲人の目が開かれること」「虐げられている人々(打ちひしがれている人々)に自由」が与えられます。それらをまとめて「主の恵みの年を告げ知らせる」ことでした。そのためにメシアは御霊の油を注がれ、父のもとから遣わされたのでした。

主の恵みの年とは旧約聖書で「ヨベルの年」(レビ25章)と呼ばれ、50年ごとにやってくる解放の年を指します。お羊(ヨベル)の角でできた角笛が各地で吹きならされ、ヨベルの年が告知されます。

出稼ぎに出ている人々も家族のもとに帰り、売られた土地、畑、家などは元の持ち主に返され、借金もゼロにされ、奴隷も全員が解放されたそうです。つまり、ヨベルの年、恵みの年の中心メッセージは「解放と自由」なのです。

「囚われ人」とは罪を犯して獄中につながれている犯罪者というよりは、戦いで敗れた国の敗残兵たちで征服者によって奴隷とされた人々をさすと言われています。盲人たちも生まれながらであれ、中途失明であれ、視力を失い暗闇の中に閉ざされていました。イエス様の時代には多くの人々が社会的な偏見の中に縛られていました。ある時、盲人がイエス様の前に救いを求めてきたとき、弟子たちでさえ、「この人が盲目なのはこの人が罪を犯したからか、両親が罪をおかしたからですか」(ヨハネ92)と、因果応報論を持ち出してイエス様に質問しました。イエス様だけが「神のみわざがこの人に現わされるため」と、彼を社会的な偏見・差別から解放し、彼の目を開き、暗闇から解放してくださったのでした。視力の回復・リカバリーも闇からの解放といえます。

生まれながらの人間は、過ぎ去った過去にとらわれます。しかし神は未来に目を向けられます。曲がり角の先に何があるのかは誰にも見えません。しかし神はすべてを知っておられ、人が見えないところに、神の栄光を輝かせてくださいます。神のみわざがかならずそこでは行われるからです。私たちは知ることも見ることもできませんが、信じ信頼することができます。そしてイエス様の約束のことばを実感し、感謝することでしょう。

「もし信じるならば、あなたは神の栄光を見ると私は言ったではないか」(ヨハネ1140

今、聖書学校では「聖書が教える救い」という舟喜順一先生の著書を用いて学んでいます。「救い」という言葉が実に多様な意味と表現で語られています。基本的には6つの用語が使われています。罪の赦し、罪を消し去る、癒される、解放される、買い戻される(贖われる)、救い出される(滅びから永遠のいのちへ)。その中でも「解放される」は、キリストのみわざの大きな特徴といえるのではないでしょうか。

人間は、死の恐れに縛られ、罪の鎖につながれ、日々の人生の重荷にあえぎ、不安に打ちひしがれ、さまざまな社会的偏見や差別に苦悩しています。誰が私たちをそのような支配から解き放ってくださるのでしょう。お金も教育も医学も政治も解放と自由をもたらすことができません。神が遣わされた救い主イエスキリストお一人が、すべての縄目から人々を解き放ち、神のめぐみの年を告げ知らせることがおできになるのです。神の御子キリストのことばを聞き、聖書のことばに信頼しましょう。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)

「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8:36)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」(Ⅱコリント3:17)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

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