【福音宣教】 預言者ヨハネの登場

「斧もすでに木の根元におかれています」(ルカ29

18年の歳月が流れ、いよいよバプテスマのヨハネが歴史の舞台に登場してきます。彼はイエス様の母マリアと親戚関係にあった祭司ザカリアと妻エリサベツの子でした。長年、子供ができず年老いた時、神の奇跡的なあわれみによって与えられた子でした。それゆえ両親は彼を祭司の家の息子として祭司職の道を歩ませるのではなく、神のみこころに委ねて人里離れた荒野で、特別な教育や訓練を受けて預言者として生きる道を歩ませたようです。祭司の衣服とは対照的な「らくだの毛衣をまとい、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食物としていた」(マルコ16)という風貌で群衆の前に現れました。

1. 地上の権力者のただなかに

神様は御子イエスキリストの先駆けとして、キリストを迎える道を備えるために、ユダヤの国に預言者ヨハネを遣わしました。ローマ帝国を支配する第2代目ローマ皇帝テベリウス、ユダヤ州全土を統治するローマ総督ポンテオ・ピラト、ユダヤ国内のガリラヤ地方を治める国主ヘロデ・アンティパス、イツリアとテラコニテ地方の国主ピリポ、北部のヘルモン山のふもと地域であるアピレネ地方の国主ルサニア、さらに都エルサレムにおいてはユダヤ教の指導者である大祭司カヤパと彼の義理の父で絶大な権力を今なお保持している引退した先代の大祭司アンナス。6人の外国人(異邦人)の政治的支配者の名前と2名の宗教的権力者の名前が列挙されています。それらのリストは、目に見えるこの世の権力と肉的な支配をあらわしています。そのただ中に、目に見えない神の国から、預言者ヨハネと救い主キリストが遣わされたのでした。そして、最終的には「キリストの福音」が、ユダヤ民族の壁を越え「全世界」に伝えられ、サタンの持つこの世のあらゆる闇の力は打ち破られて、永遠の神の御国が到来し完成するという、壮大な神の歴史ドラマ(救済史)の幕が上がったのでした。

2. 預言者ヨハネが説く、悔い改めのバプテスマ

「罪が赦されるため、悔い改めてバプテスマを受けよ」(3)と、ヨルダン川のほとりに立ち、バプテスマのヨハネは民衆に力強く語りました。

当時、ユダヤ教に改宗することを願う異邦人に対して水によるバプテスマが要求されたそうです。一方、ユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれたアブラハムの子孫だからその必要はないと高ぶっていました。ところがヨハネは「自分たちの先祖はアブラハムだ、その子孫だなどと思いあがってはならない!」「神に選ばれた民どころか、「まむしの末」だ!」とまで容赦なく糾弾し、「悔い改めにふさわしいもろもろの実を結べ」と迫ったのでした。

「悔い改めよ」という言葉は「方向転換」を意味します。神に背を向けて滅びに向かって生きるような生き方の向きを変えて、神のもとに立ち返ることを意味しています。

なぜそうしなければならないのでしょうか。「斧がすでに木の根元におかれているから」です。木はイスラエル民族を指します。根もとにおかれた斧は神の裁きを意味します。神によって実を結ばない不毛な木が切り倒される時が迫っている。だからヨハネは民衆にそして宗教的指導者たちにも「悔い改めて、神に立ち返れ」と強調したのでした。歴史的には事実、AD70年9月に、反乱を鎮圧するために進軍してきたローマ軍によってエルサレムは包囲され、総攻撃を受け、ついに神殿は破壊され、がれきの山、廃墟となってしまいました。預言者ヨハネは神の御霊によってそのことを見据えていたと思われます

「斧は木の根元におかれている」、この言葉を私たちに適応することもできます。

聖書は「人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(へブル927)と明言しています。人はみな、死んだのち神の裁きの座に立たされるのです。私たちは「自分がいつか死ぬこと」はちゃんと理解しています。しかし、まだ先のことと思っています。他人のお葬式に出席しても、自分が棺に入ることを実感として受けとめてはいません。自分も当事者であるとは自覚していません。葬儀を出すご遺族は葬儀社の担当者からパンフレットを見せられ「どの棺にしましょうか」と打ち合わせをします。ご遺族はなるべく立派な棺を用意し、遺体を納めようとします。でも一度でいいからまず自分がその中に入ってみるということはしません。「居心地を確かめてみませんか」と言われてもお断りするにちがいないと思います。入っただけでなく蓋をしめてもらったらどうでしょうか。100%間違いなく「自分自身の死」を実感できることでしょう。1年以上にわたるコロナ禍の中で、特に高齢者や持病を持っている方々が短期間で重篤化し命を落とすというケースを私たちは幾度も見聞きしてきました。死は数百キロも遠い先にあるのではなく数センチ先にあります。数年先にあるのではなく、数秒先にも存在しているのです。もちろんいたずらに怖がる必要はありませんが、聖書が教えているように、悔い改めつまり方向転換をして、神に立ち返る時、今がその時ではないでしょうか。必要なことは恐れることではありません。しっかり考え、神に立ち返ることを選択することです。旧約時代の預言者アモスは言いました。

                    「あなたの神に会う備えをせよ」(アモス412)と。

3. キリストによる恵みの猶予期間

さて、「斧が根元におかれている」(9)という言葉はもう一つの意味を持っています。

根元に斧が置かれていますが、まだ手に取られてはいない。斧は振り上げられてはいません。木が切り倒される時が迫ってはいますが、まだ木は切り倒されていない。実を結ばない木は最後に切り倒されますが、まだ「時が用意されている。つまり「執行猶予期間」が備えられているのです。斧がまだ根元におかれている期間は、「神の御子キリストによる救いの恵み」が用意されているというメッセージでもあったのです。預言者は常に、厳粛な神の裁きを語りつつも、神の恵みと希望を同時に語り続けました。バプテスマのヨハネも厳しく群衆を糾弾しつつ、やがて来るべき神の御子・救い主キリストによる罪の赦しと救いを指し示しました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ129)と。悔い改めと水のバプテスマを私は授けることができるが、この方は聖霊と火をもって罪人の罪をきよめ、新しいいのちに生かすことができるのだ(ルカ316)と、キリストの救いの御業を告げました。なぜなら、父なる神様は「一人も滅びることなく永遠のいのちを持つこと」願っておられるからです。愛をこめて植えられた木を惜しまれているからです。

バプテスマのヨハネとキリストが説く宣教は、方向転換、つまり実質的に神に立ち帰り、神と和解し、神との生きた交わりの中に信仰によって生きる道を明らかにすることでした。人々は神殿に押し寄せ、大祭司や祭司たちの手によって動物の犠牲がささげられることの中に、あるいは律法学者やパリサイ人たちの説く律法の教えを堅く守る中に、救いの道を見出そうとしました。しかし、「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」とニコデモにイエス様が教えたように、形骸化した儀式制度や戒律ではなく、祈りと悔いし砕けたこころをもって、へりくだって「神に立ち帰る道を歩む」ことが求められています。 

                    さあ、あなたの唯一の救い主であるキリストに会う備えをしましょう。

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