【福音宣教】 幼子イエスから少年イエスへ

ルカ239-40,51-52

ご家庭を訪問すると室内にお孫さんの写真がよく飾られているのを目にすることが多くあります。「かわいいですね」と声をかけると、「そうでしょう」と途端に頬がゆるみます。ご自身の子供時代の写真はなかなか見せてもらえません。恥かしいのでしょうか。ご自分にもかわいい子供ども時代があったことを忘れてしまわれたのでしょうか・・・。

ルカはイエス様の生後40日以後の幼少時代と、12歳になられたときのエピソードとその後の少年時代について今日の朗読個所に記しています。ルカだけが記しています。

1. 神の御子の幼少時代

生後40日が過ぎ宮参りを済ませた両親はナザレに戻りました。幼子は「成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがあった」とルカは記しています。これらの動詞は完了形ですから「ますます成長し続けている」ことを示しています。赤ちゃんの健やかな成長ぶりが伺えます。特徴は「知恵に満ちていた」点です。知恵と知識とは異なります。日本の母親は幼い時から教育に熱心ですが、知識を多く与えるだけでは不十分です。知恵は「神の恵みがその上にある」ことから生じます。神がおられること、神を敬うこと、神に祈り、神に礼拝をささげること、それらは幼い時から両親によって届けられて「人生の宝」となります。真の知識は「神をおそれ敬う」ことから始まるのです。知恵はやがて神のみこころを尋ね求める祈りへと成長します。日本の場合、クリスチャンの60%は20歳までに信仰に満ちびかれているそうです。小、中、高校でそれぞれ13%、大学で20%だそうです(松木祐三師)。3歳以前に信じた人も1%いるとのことです。

2. 神の御子の少年時代(青年時代)

次に、イエス様が12歳になられ両親と共に過ぎ越しの祭を祝うため神殿にのぼった出来事が記されています。ユダヤの国では男子は13歳になるとバル・ミツバと呼ばれる成人式を迎え、戒律を守るユダヤ教徒として自覚をもって宗教儀式に加わるようになります。両親は盛大なパーティを開き、お祝いに集まった人々の前で彼らはスピーチを行う習わしがあります。誇らしくスピーチをする息子の姿は、両親の喜びでもありました。

ナザレに戻ったイエス様は「両親に仕えた」(51)とあります。ナザレ時代のイエス様の生活の様子を象徴している言葉だと思います。「両親に」とありますから、まだ父のヨセフは健在です。また子宝に恵まれたヨセフとマリアの間には、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、妹たち」(マタイ1355-56)、少なくとも6人の弟と妹がいたことがわかっています。イエス様が両親を敬い、手助けし、弟や妹の世話を良くする「お兄ちゃん」としてのイエス様の様子が伝わってきます。やがていつの日か、父のヨセフが事故か病かわかりませんが亡くなるという「家庭の悲劇の日」を迎えることになります。父親を失うという悲しみに中にありながら、イエス様が母マリヤを慰め、兄弟たちを励まし、父に代わって大黒柱として働いて兄弟たちを養っていく、たくましい姿と美しい家族愛の姿を見ることができます。さらに、ユダヤ社会には、男子は手に職を持つこと、つまり何か一つ職人としての技量を身につけ生活の糧としていくという伝統がありますから、大工のヨセフの下でイエス様は大工仕事に従事しながら、知識や技術を身につけ、からだも筋肉質になり、背丈の大きい若者に育っていったことがわかります。「背丈も大きくなり」とはこのような意味ではないでしょうか。

少年時代以降、おそらく青年期を含めたイエス様は「ますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人に愛された」(52)と記されています。大きな特徴は「神と人に愛された」(52)点にあります。神のめぐみの中で知恵は豊かになり「神と人に愛される」(52)人間的な、社会的な成熟へと進みます。知識はすぐれていても「社会的にうまくいかない」人々も多くいます。「人に愛される」ためには「人を愛する」ことができなければなりません。人を愛することができるには、自分を愛することができなければなりません。人を愛することは「相手を大切にするこころを育むこと」と同じです。自分とは違う相手を、差別したり、敵視したり、排除したりするのではなく、違いを認め、受け入れ合って、相手をリスペクトして、ともに生きていくことです。

聖書は「神と人に愛された」と順序を正確に記しています。神に愛されることが先です。人に愛されることを第一に求めてはなりません。いつか傷つきつまずき自分を見失ってしまうからです。生まれながらの人間はいつも自分が中心ですから、自分を愛してくれそうな人を利用しますが、都合が悪くなればいつかは見捨てていきます。人に愛されることばかりを追い求めていては、やがて置き去りにされ、空しさを味わうことになります。

神に愛されることを求めましょう。それは、神に愛されている事実を受け入れることを意味します。神に愛されるように一生懸命努力して、神を愛するということではありません。あなたがもうすでに十二分に、120%神から愛されていることを知り、受け入れ、認めることです。十字架の上でひとりごを死なせてもあなたを罪と死から救いたいと願ってくださった神の愛を信じることです。十字架でいのちまでも捨ててくださった御子キリストの愛を受け入れることです。カルバリの丘の十字架において、神の愛は結実しています。まさに「ここに愛がある」(1ヨハネ4:9)のです。
このように、イエス様の子供時代と少年時代さらには青年時代の特徴は、「知恵に満ち、神と人に愛されて」成長したことです。

3. 子どもを愛されたイエス様

ルカだけがこのようにイエス様の幼児期と少年時代を記しています。神学的には、人となられた神の御子キリストを示すためでした(ピリピ27)。それだけではなく、もう一つの理由があるように思われます。イエス様ご自身が子供たちを愛されたこと、子供たちに目を注がれていたことを示すためでもありました。「イエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(ルカ18:16)。このまなざしは病院や女性や子供といった弱い立場の人々を顧みる医者ルカの思いとも重なったことと思われます。 コロナ禍の中で見落としてはならない現実があります。女性の自殺者数が急増し、10月には前年度83%増になったそうです。政府発表で昨年11月の女性の失業者は72万人。多くは弱い立場の非正規社員やアルバイト。しかもその中にはシングルマザーとして子供を育てている人たちも少なくないそうです。つまり弱い子供たちにしわ寄せがきて、生活に困り、学校へ行くどころか食事にも事欠く状況が起きているそうです。貧しい子供たちに食事を提供する子供食堂がNPOの手によって開かれたり、レストランや一般食堂のオーナーが母子家庭の親子には食事代を無料にしているという心温まるニュースも報道されています。豊かな国、日本でさえそうなら、世界中にあふれている難民の子供たちの生活はいかばかりでしょうか。ルカは立場の弱い人々を守る医者としての視点からも、少年時代のイエス様の歩みを福音書に記しました。いつの時代も、子供たちの存在を忘れてはならないことを伝えるためではなかったからではと思います。

すべての子供が大人になるわけではありません。病気や事故で亡くなることもあります。子供たちにも永遠のいのちは必要です。子供たちも悩み、苦しみ、涙をながして我慢しながら彼らの小さいけれど大切な人生を生きています。イエス様は彼らの救い主でもあるのです。私たち大人が神を無視して礼拝をおろそかにすれば、子供たちは誰から神の存在を知り、学ぶことができるでしょうか。

2000年にイスラエル旅行をしたとき、ガリラヤ湖近辺にある古いシナゴーグ(ユダヤ人の会堂)跡を見学しました。ガイドが床の一部を指さして、「これは子供たちの落書きの跡です。親と一緒に礼拝にきたものの退屈になって床で遊んでいたのでしょうね」と微笑みながら説明してくれました。私には心に残る場所でした。

親がどんな状況の中にあっても、礼拝をささげているならば、きっと子供たちがあるいは孫たちが、神を信じる一人となって成長してくれるのではないでしょうか。

神の恵みがその上にありますように。

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