【福音宣教】 祭司ザカリアの賛歌 ほめたたえよイスラエルの神

2011/11/22 聖書箇所 ルカ1:57-80 

さて、祭司ザカリアの妻エリサベツが男の子を出産した8日目に、ユダヤ教の宗教習慣に従い割礼と命名式が親族たちによって行われました。「近所の人々や親族が来て」とあるように、古代社会では男の子の誕生に際してはラッパ、竪琴、タンバリンを奏でて祝福の歌をささげましたが、女の子の場合は沈黙のうちに解散したそうです。「男子の誕生は全世界の喜び、女の子の誕生は全世界の悲しみ」と言われるほど女性の地位は弱かったそうです。

生まれた男子には、通常は父親の名がつけられるのですが、妻エリサベツは御使いガブリエルが夫に告げた「ヨハネ」と命名されねばならないと親族に告げました(60)。納得がいかない親族は口がきけなくなっていたザカリアに直接尋ねようとしたとき、ザカリアは書き板に「その名はヨハネ」(63)と記しました。人々は不思議に思いましたが、それはまさにザカリアが、父親として子供を命名する人間的権利を手放し、神のご計画と御告げを受け入れ従った瞬間でもあったのでした。その時、すぐさまザカリヤの口が開き、彼は神をほめたたえ、聖霊に満たされて預言しました。このザカリヤの「ほめたたえよ」(68)(ユーロゲートス)のラテン語をベネディクトスとカトリック教会では呼んでいます。マリアの「主をあがめよ」(46)(メガルーレイ)をラテン語でマグニフィカトと呼ばれています。

1. イスラエルの神である主をほめたたえよ(68

御霊に満たされたザカリアは、イスラエルの神を誉めたたえました。考えれば9か月以上、彼は話すことができませんでした。沈黙を強いられました。しかしその沈黙の中で彼はいよいよ生ける神に近づきました。神殿で仕えているから神に近いわけではありません。祭司だから神のみこころを理解しているわけではありません。神の前に沈黙し、黙想し、神に祈る者たちこそが神をあがめ、神を賛美できるのです。聖霊に満たされるとはそのような人々を指します。祭司として民に祝福の言葉も祈りも与えられないそんな「空っぽの器」になってしまった時、彼は聖霊に満たされたのでした。神殿ではなく自分の家で、祭司の器として働きができない中で、彼は「聖霊の器」とされ、心の底から神を賛美できたのです。この讃美はメシア誕生の預言となっています。

「救いの角」(69)をダビデの家に立てられたとは、約束のメシヤを指します。雄牛などの角は、旧約では「力の象徴」を意味しており、救いの角とは、神の力をもって救いをもたらすメシヤを示しています。しかもそれはイスラエルの父祖アブラハムに誓われた「契約」の成就でもありました。

メシア(救い主)の働きは、神の民を「贖い」(68)、神の民を憎む敵の手からの「救い」(71)でした。 神の民の敵とは、旧約では「アッスリヤ、バビロン帝国による侵略と奴隷化」、霊的には「サタンと罪と死」の力、人間的には「おごり高ぶりと不信仰と恐れ」と言えるのではないでしょうか。救いとは奴隷状態からの「解放」、旧約では「出エジプト」「出バビロン捕囚」、新約では「罪と死の支配からの解放」と言えます。

まもなく私たちはクリスマスを迎えます。ついに時が満ち、神の御子が救い主として、私たちの世界に来られ、サタンと罪と死の力を打ち破り、解放してくださった日なのです。

「暗黒と死の陰に座る者たちを照らし、われらの足を平和に導く」(79)まさに、キリストの福音が宣言された日でもあるのです。御子の誕生を心からほえたたえます。

2. 主の道を備える預言者

ザカリアは妻エリサベツから生まれた子は「いと高き方の預言者」(76)と呼ばれると預言しました。一方、マリアから生まれた子は「いと高き方の子」(32)と呼ばれるとガブルエルは告げました。神の預言者と神の御子の違いが明確にされています。人は人に過ぎず、神は永遠に神であって、人は決して神にはなれません。この境界線が薄れてしまうところに偶像礼拝の闇が広がり、混乱が生じてきます。

預言者バプテスマのヨハネは神の御子イエスキリストに対して「私などはその方の靴の紐を解く値打ちすらない。その方はあなた方に聖霊と火のバプテスマをお授けになる」(316)と明言しました。

「主の御前に先立ち、主の道を備える」(76)人間ヨハネと「私は道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ146)、と語られる神の御子キリストとをしっかりと区別しましょう。


3. 沈黙

80節で、ヨハネは「公に出現する日まで荒野にいた」(80)と記されています。通常は祭司の息子たちは、幼い時から父に倣って祭司の務めの学びや準備や訓練を受けるはずです。また祭司たちが住む村の中で多くの家族たちとまた子供たちと戯れながら共に共同体的な生活を営むことでしょう。しかしヨハネはそこから独立して荒野でおそらく牧畜の生活をしながら過ごしたようです。世の喧騒から離れ、沈黙の中で、静かに時を過ごしたことでしょう。ナザレに住むマリアも「聖霊によって身ごもる」という神の御業に与りましたが、100kmも離れた親族エリサベツを訪ね、その家で静かに過ごしました。ナザレの町にいる限りは、うわさやゴシップの嵐に巻き込まれてしまうからです。「主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は何と幸いでしょう」(145)との信仰をもったマリアとエリサベツが共に過ごした9か月、夫ザカリアが口がきけず沈黙の中で過ごした9か月はどれほど濃密な時間であったことでしょう。時はその長さではかられるものではなく、その質の深さではかられるものだと思わされます。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩篇46:10)。

クリスマスがいつしか華やかなお祭り騒ぎになりかねない昨今です。

コロナ禍の2020年は世界中のどの教会も、きっと静かなクリスマス礼拝がささげられるのではないでしょうか。例年とは異なる「サイレントナイト」のクリスマスとなる予感がします。哲学者キルケゴールは、「現代社会の状態、いや生活全体が病んでいるのだ。もしも私が医者であってどうすればよいかと相談を受ければ、私はこう答えるであろう。「沈黙を創れ」。実際人間たちを沈黙へ連れていけ。神の御言葉はこのような有様の中で聴き取れるようなものではない」(山内一郎 関西大学教授 説教者のための聖書講解)と警鐘をならしています。

2020年のクリスマスは、そのような「沈黙の美しさ」の中で迎えるクリスマスでありたいと願います。

このことを宇治バプテスト教会の2020年のクリスマスのメッセージとして受け取らせていただきましょう。  

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