【福音宣教】 マリアへの告知 おめでとうマリア

「神には不可能なことはなにもありません」(ルカ1:37

祭司ザカリアに御使いガブリエルが現れ、不妊の女性と呼ばれた妻エリサベツの妊娠を告げた後、6か月後、今度はナザレの村に住むマリアにガブリエルは現れました。彼女はダビデ家の血筋であるヨセフと婚約をしていた乙女(処女)でした。御使いは彼女に「おめでとう、恵まれた方よ、主が共におられます」と呼びかけました。御使いはマリアが聖霊によって身ごもり、やがて生まれる男子は「旧約聖書において預言されているメシア」であることを告げました。

救い主の母となったマリアの信仰を学びましょう。

1. 思いめぐらした

都エルサレムの神殿で神に仕える祭司ザカリアでさえ天使の突然の出現と御告げに驚き恐れました。ましてや、イスラエルの北の端のガリラヤ地方、ナザレという田舎の村に住むごくごく平凡な若き女性マリアに突然天使が出現したのですから、おどろき、慌てふためき、腰を抜かしても当たり前の状況と言えます。ところが意外と彼女は落ち着きはらっています。胸騒ぎがして戸惑いつつも、これは「何事か」と思い巡らしていました。もしあなたに天使が現れたら、目は点、頭はまっしろで思考停止になるのではないでしょうか。

ガブリエルがマリアに告げた「いと高き方の子」「ダビデの王座」(32)「ヤコブの家」「国はとこしえまで」(33)等は、旧約聖書第2サムエル7:12以下、イザヤ9:6からの引用でした。み使いの御告げは荒唐無稽の内容と出来事ではなく、イスラエルの民が待ち望み続けてきた神の約束の成就であることをマリアは理解できたことでしょう。

当時、男の子は幼い時から徹底的に旧約聖書(律法と預言)を学び、暗唱するという教育を受けていたと言われていますが、女子が旧約聖書に親しむことは多くはなかったと言われています。名門の祭司階級に属するエリサベツが親族でしたからマリアの両親も祭司一族ではなかったかとも言われています。したがって男女の区別なく、子供たちにみ言葉を教え、親しませてきたと推測できます。幼い時の聖書教育、宗教教育はのちの人生に深い意味をもたらします。マリアはみ言葉によって、おさなごイエス様を育てたことでしょう。父なる神様がマリアを御子の母と選んだ理由の一つがここにあるといえます。マリアは「みことばの人」であったのです。

2. あなたのことば通りなりますように

マリアも人間的には到底、信じがたい御告げを聞き、「どうしてそんなことがありえましょうか」(34)と、み使いに問いかけました。性的な交渉もないのに子を宿すことなどあり得ない話です。聖霊によって身ごもると言われても何のことかわからなかったことでしょう。しかし、ガブリエルが「神には不可能なことはなにもない」(37)と語ったとき、彼女の信仰がスイッチオンとなり、起動し、動き出したのです。信仰は持っているだけでなく、働かせることが大事です。人間的な常識、理性、知性では受け止められない「神のみこころ」と「みことば」と「みわざ」をも、「信仰」は受けとめることができるのです。ですから彼女の口から2度と疑いの言葉は出てきませんでした。むしろ「あなたのことば通りなりますように」(38)という信頼と期待のことばがあふれ出て来たのです。

「信仰がなければ神に喜ばれることはできない」(へブル116

父なる神様がマリアを神の御子の母として選ばれた第2の理由がここにあります。

マリアは「私は主のはしため」(38)ですと、自分の生きる道をはっきり自覚しています。自分がなにものであるか、自分はどう生きるべきか、自分のなすべきことがわかっていました。ナザレの田舎村で貧しい大工ヨセフの妻として一生を過ごすであろう。年に一度は祭りの日に、都エルサレムに家族で旅をするのが唯一の楽しみというような地味な生活の日々であるかもしれない。けれどもマリアは知っていたのです。どのような場所で、どのような生活を過ごそうと、「わたしは主のはしため」として生きると。神様の御前に遜って「お仕え」することが、私の人生、私の生きる意味であり、生きる道なのだと。そしてそのために「私は神に信頼し、神にはできないことはない」と信じる。信じ続ける」のだと。 

昨日、教会員の姉妹とともに病院に入院している98歳になるお父さんをお訪ねしました。骨折した大腿骨を手術する予定でしたが肺炎が悪化したため、手術が中止になりました。日に日に容態が悪化し、ナースステーション脇の部屋に移されました。意識も薄れ、呼吸も荒くなっていました。父を天国へ導きたいと必死で祈り、毎日病床で、「イエス様、を信じて家族そろって天国へ行こう」声をかけ伝道されたそうです。
応答できないはずのお父さんが手を握り返してきたそうです。先生、信仰の確認をして導いてくださいと依頼を受け、昨日、私は病床で洗礼をする準備をして出かけました。
大声で耳元で「イエス様を信じて天国へ行きましょう」と呼びかけると、手を動かし、口をあけて「ああ」と大きな声を出されました。私もびっくりしました。精一杯の応答と受けとめて洗礼を授けました。その後、本当に安らいだお顔になられました。

滋賀県にあるお寺の住職が、「葬儀には遠くてもすぐに駆けつける」と言われていたそうですが、仏式の葬儀ではなく、家族で話し合ってキリスト教でお葬儀を出すことをすでに決めていたので、病室を出たあと、そのまま草津のお寺に出かけ、住職に事情を伝え、了解を得ることもできました。まるで「ゴリアテに挑む少年ダビデの気持ち」だと語り、お寺に向かう車の中でもほとんど無口のまま、大変緊張されていた様子でした。

点滴だけでいのちをつないでいる状態なのでご家族は覚悟をされています。キリスト教での葬儀となりますが、神様の栄光があらわされますように覚えてお祈りください。

不可能と思われていることが、神にあっては可能となります。

マリアのようにみ言葉と信仰に生きるお互いでありたいものです。


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