【福音宣教】 神のことばはその時になれば成就する

「わたしのことばは、その時がくれば実現します」(ルカ1:20)」

御使いが祭司ザカリアに、年老いた夫婦に男子が生まれ、その子は後に成長して「大いなる者」(15)すなわち「預言者」となって神の民イスラエルの心を神の御前に整え、メシアを迎える準備をするであろうと、告げました。それは長年、子供がなく絶望的な状況にあったザカリア夫婦に取っては喜ばしい知らせのはずでしたが、にわかに信じがたく、思わず本音を漏らしてしまいました。「どうしてそのことを知ることができるでしょうか。この私は年寄りで妻も年がいっています」(118)と。

御使いガブリエルは「喜ばしい知らせを伝えにきた」(119)のに、やや気落ちしたことでしょう。「わたしのことばを信じなかったから、あなたは口がきけなくなります」(20)とザカリアに告げました。事実、ザカリアは、約束通り、妻エリザベツが妊娠し、月が満ちて男子が生まれ、御使いが命じたように「ヨハネ」と命名したとき、「はじめて口が開けものが言えるように(164)」なりました。

1. 祭司ザカリアの不信仰

ザカリアは「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく行っていた」(6)祭司の中の祭司、鏡のようなりっぱな人物でした。しかし、子の誕生とその子がやがてイスラエル最後の預言者となると御使いに告げられても、信じることができませんでした。

「あなたの願いがきかれたのです」(13)と、彼と妻とが心をあわせて祈っていたことが、ついにきかれたというのにです!何てことでしょう。でもこれがありのままの実態です。

「信じる」ことと、宗教的に立派であること、道徳的に完全であることとはイコールではありません。「信じる」ことと、知っていること、多くの経験や経歴を重ねていることとも一致するわけではないようです。熱心に祈りながら、それが聴かれるとは信じていない・・私たちがしばしば経験するギャップでもあります。

こう考えると、「信じる」ことはひとつのすぐれた「霊的な能力」と言えます。人間の理性や常識で「知ろう」とすれば、きっと「壁にぶつかって」しまい先に進めなくなってしまうことでしょう。全能者なる神は「人間的なできる・できないの壁」などたやすく砕いて崩してしまいます。神は「知る」対象ではなく「信じる」対象なのです。そして信じることは人間に与えられた「神に出会い、神と共に生きる」ためのもっとも優れた「能力」といえます。ですから復活されたイエス様も、疑う弟子のトマスに対して「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ2027)と語りかけました。使徒ヨハネは繰り返し強調しています。「信じる者は滅びることなく永遠のいのちを持つ」(316)と。

大切なことであればあるほど、信じることを神は求めておられるのです。

信じることの価値を低く見積もってはいけません。私たちは日曜日の朝毎に「使徒信条」を告白しています。信じる22の項目より、「我、信ず」という動詞と宣言こそが重要です。

2. 祭司の妻エリサベツの信仰

一方、妻のエリサベツは、夫ザカリアが神殿で御使いと出会い、特別な啓示を受けたことを理解したことでしょう。神に選ばれた特別な祭司たちがそのような特別な経験をしてきたことを知っていたからです。夫の口から事の次第を詳細に聞くことはできませんでしたが、筆記することあるいは身振り手振りを通してザカリアの特別な経験を理解できたにちがいありません。

エリサベツはその後、身ごもりました。その時、「主は私の恥を取り除こうとこころにかけて今、このようにしてくださいました」(23)と感謝の祈りをささげています。神が祈りにこたえてくださったと感謝しています。彼女は祈りながら信じた一人、信じながら祈った一人でした。そこにはギャップがありませんでした。信じる力の中に生きていたのです。

3. 御使いガブリエルのことば

「わたしのことばはその時がくれば実現します」(20.御使いは「私の言葉は、その時がくれば実現します」(20)と、信じようとしないザカリアに対してはっきり宣言しました。神から遣わされた御使いのことばはそのまま、神のことばですから、神のことばは時が来れば必ず成就します。これは旧約時代を貫いている神の約束でもあります。

主はモーセに言われた、「主の手は短かろうか。あなたは、いま、わたしの言葉の成るかどうかを見るであろう」(民数記11:23)

主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ」(詩篇33:11)

「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

堀池チャペルから開町の会堂に導かれるとき、私たちは「貴重な経験」をしました。駐車場代わりとしていたスーパーが閉鎖になり、2010年、いよいよ私たちは背水の陣で、あたらしい会堂と候補地を探し求めました。

その時、私に「わたしはわたしの美しい家を輝かす」(イザヤ60:7)とのみ言葉が与えられました。なにより私の顔が輝いたことを思い出します。そしてこの開町の会堂に導かれました。赤茶色の外壁をイエローホワイトに変え、会堂の内壁も手作りでホワイトに変え見違えるほど美しくなりました。屋根には夜空に輝く十字架も掲げられました。さらに園芸担当者も与えられ花壇や玄関や駐車場周辺に季節の花が植えられ、年ごとに美しくなってきました。10年経ち、信徒ひとりひとりがますます輝いています。建物よりも花壇よりも信徒の笑顔と明るさが宇治バプテスト教会の輝きです。主が何よりも喜びとしてくださっています。「私の美しい家を輝かす」との主のことば通りに、主が導いておられると感謝し、確信しています。

御使いは「時がくれば」ということばを加えていることを見落としてはなりません。神の時と私たちが「待つ」時とはワンセットです。待つことは委ねることです。この世では信じて待つのではなく計画して攻めること、委ねるので獲得することが優先されます。しかし信仰の世界は「委ねて信じて待つ」ことが祝福への道です。獲得したものは失ないように奪われないよう必死で守らねばなりませんが、与えられたものは感謝して受け取り、いつまでもあり続け、残り続けるからです。

あなたも神様に祈っていることがあることでしょう。明日、就職の採用面接を受ける高校生とも朝の礼拝前に一緒に祈りました。大学の受験生もいます。結婚を願っている青年、病気の家族の手術の成功を祈っているメンバー、がんとの療養の日々を送っている兄弟姉妹もいます。祈りつつ信じ、信じつつ祈りましょう。神の時を委ねつつ待ち望みましょう。次の神の言葉をあなたに贈ります。

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」(箴言16:3)


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