2004年 5月のメッセ−ジ   

 

「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それはあなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです」(1コリント47)

約二千年前、現在の東ヨーロッパ、マケドニア地方にある諸教会の中から、自発的な募金運動が起こりました。迫害と飢饉の中で困窮しているエルサレムにあるユダヤ人教会の貧しい人々を援助しよういう募金活動に、多くの教会が賛同し惜しみなく協力しました。

しかも、最初に立ち上がったマケドニア教会は裕福でゆとりがあったから、そうしたのではありません。むしろ聖書は、「激しい試練の中にあっても、彼らの満ち溢れる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらずあふれ出て、惜しみなく施す富となったのです」(2コリント8:2)と背景を説明しています。

もし、困難な状況と自分の生活だけを見るなら、惜しむ思いが献げる心を退けてしまったことでしょう。エルサレム教会の困難なども、他人事で済まされたにちがいありません。彼らがこのような愛と喜びにあふれたのは、十字架にかかり全てを与えつくされたキリストを知っていたからです。

栄光に満ちた最も富める神の御子が、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与え、神との和解に招き入れようと、十字架にかかりいのちまでも捧げ、最も貧しくなってくださいました。彼らはこの恵みを知って深く感謝し、感動したのです。

惜しみなく与えてくださった神を知らなければ、私たちは奪い取ることの満足しか知らない貧しい人生を歩んだかもしれません。

空気も水も光も食物もすべては天地の創造主からの恵みです。すべてが無代価の贈り物です。その上、父なる神はひとり子さえ惜しまず賜ってくださいました。

「あなたの持っているものでもらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」(1コリント4:7)

アウグスチヌスは礼拝の奉献において、「あなたの献げものとともにあなた自身を祭壇に献げるのです」といつも会衆に語りかけたそうです。

 受けた恵みを感謝し、神の恵みを豊に分かち合うことは、みこころにかなったことです。


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