2004年 10月のメッセ−ジ   

 

                               たとえ人生の不条理の中でも

「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて
・・・すべての名の上に高くおかれました

(エペソ1:20-21)

復活されたイエスキリストは、神の右の座に着座され、すべての名に勝る名とすべての権威が服する主権をお受けになりました。私たちの人生はキリストの主権の下におかれ日々導かれています。 

私たちの人生には「なぜ、どうして」と、うめき嘆くような理不尽で不公平と感じる出来事が少なくありません。「どうしてこんなことが起きてしまうの、神様は一体どこにいらっしゃるの?」と思うような悲しい出来事も起きてまいります。

私たちは神様が悪や災いをもたらすことは決してなさらないことを知っています。すべての悪と誘惑はサタンによって持ち込まれてきます。しかもサタンは巧妙にささやきかけてきます、「お前は不信仰だから、神様に見放されているんだ」と。

試練や困難それ自体につまづくクリスチャンの数は多くはないと思います。しかし「お前は見捨てられているのだ」と、試練を通してささやいてくるサタンの攻撃になぎ倒されてしまうクリスチャンの数は決して少なくないと思います。

人生は不条理です。道理にかなわぬことが横行し矛盾に満ちています。世の賢人たちが数千年考えてもいまだに答えを見いだせない不可解な人生の謎も多くあります。謎を無理に解こうとするなら、出口の無い空しい堂々めぐりに陥ってしまいます。

しかし、不条理と思われる人生にも、キリストの主権は及んでいます。人生の深みも、神の御心の深さそのものと解釈すれば、新しい意味を見出すことができます。なによりも、人は神の御心のすべてを知り尽くすことはできませんから、人生の深みに属することがらは、無理に答えを求めず、むしろありのまま受けいれてゆくことが求められています。

人生におけるすべてのできごとには意味があると聖書は教えています。そうであるならば、私たちが生きてゆく上で大切なことは、恵みの神が御支配してくださる人生には、意味のないことは何ひとつないと信じて、お委ねすることだと思います。委ねる心を神の平安が守ります。

私たちが見上げる天の右の座は、もはや空席ではありません。キリストが着座しておられます。

答えを見出せない空しさもやがて大きな感謝と変えられることでしょう。
(9月26日・礼拝説教)


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