3月のメッセ−ジ   2003年

 

春までもうすぐですね、花粉症の季節ですお体大切に。

聖書は何と言っていますか。それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされたとあります。」(ロマ4:3)

旧約聖書に記されているイスラエル民族の父祖アブラハムは「信仰の人」でした。

そして彼の信仰は、すべての信徒の信仰の原点ともなっています。アブラハムは、「望みえないときに望みを抱いて信じ」(ロマ4・1−8)ました。

 80数歳になってもアブラハム夫妻に子供が生まれませんでした。そのため、長年にわたり忠実に仕えているエリエゼルという部下を跡取りにとさえ真剣に考え始めていました。妻のサライはのちに女奴隷ハガルにアブラハムの子を生ませようとさえ図りました。もはや「子を望もうにも、望みえない状況」のもとにありました。私たちもしばしば同じような厳しい苦境に追い込まれる時があります。現実を見れば「もう無理だ」と口にしたくなるときがあります。

 神様はアブラハムを天幕から外に連れ出し、満天の星空を仰がせ、「あなたの子孫はあの星の数のようになる」と語りかけました。そのとき彼は、神は約束を必ず成就されるお方と信じたのです。神の恵みを誰も「数える」ことはできません。それはただ「待つ」しかないのです。

 信じたことがすぐに実現するわけではありません。アブラハムに息子イサクが与えられるまでなお15年近く待たねばなりませんでした。しかし待ち望む中で、神様のご計画とご準備は着実に進行し続けていたのです。神様のご準備期間が長ければ長いほどより豊かな内容に仕上げられてゆくのです。

 あきらめや失望は信仰の最大の敵です。信仰から力を奪うものは失望です。いっぽう希望は信仰のよき友でありベストパートナーです。ですから聖書は「いつまでも続くもの」として「信仰と希望」を結び合わせています。

「我々は失望の名人である」と、ある作家が言いました。その通りだと実感させられます。気落ちしたり絶望したり悲観したり、何と私たちは揺れ動くことでしょうか。

しかし、その失望を超えさせる力を、信仰は私たちの人生にもたらすのです。

信仰に生きる者の人生は神からの希望にいつも導かれる人生なのです。

                          ( 2月23日 礼拝説教要旨 )