6月のメッセ−ジ   2001年

「神の御霊による教会」

 「 しかし聖霊があなたがの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてあなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、および地の果てまだわたしの証人となります。(使徒1:8)

6月第1日曜日は「ペンテコステ」の日と呼ばれています。ペンテコステとはギリシャ語で「第50番目」という意味です。キリストが復活された日から50日目の日曜日の朝、エルサレムの大きな民家の二階座敷に集っていた120名ばかりのイエス様のお弟子たちに、神の御霊が激しく注ぎ、諸外国の言葉で神の御業を語り始めました。こうしてイエスの名による新しい信仰の共同体が誕生しました。この日は、神の御霊を起源とする「教会」が誕生した歴史的な記念日となっています。

1 聖霊に満たされた聖い共同体

教会は人間によって創設された宗教的団体ではなく、聖霊によって生み出された霊的な共同体です。教会のかしらはキリストであり、よみがえられたキリストが主権をもって臨まれます。ですから、どんな理由があれ、人間が教会を支配してはなりません。いつもイエス様の御心を祈りの中で聴き、そして従うという「祈りの共同体」としての特質をもっています。エルレムの教会は、朝の9時つまり「祈りの時間」に神の御霊が注がれ、誕生しました。人間の宗教的熱心さや行為が優先されるのではなく、祈りの中で神の御霊が豊かに働かれる聖い共同体として教会は存在しているのです。

2 聖霊に導かれた礼拝の共同体

イエス様はサマリアのゲリジム山でもなく、ユダヤのエルサレムでもない場所で、霊とまことによって神を礼拝する時が来ると預言されました。ペンテコステの日にそれは実現しました。エルサレムの民家の2階座敷で、聖霊に導かれキリストの名によって父を礼拝する新しい礼拝が捧げられるようになったのです。そこには大祭司も、壮麗な神殿も、様々な神殿祭儀も、動物の犠牲もありませんが、キリストの御霊が働く真実な礼拝がそこにはありました。

教会は聖霊が導かれる礼拝共同体として世に存在しています。教会に託された大切な努めは、人々を神への真実な礼拝に導くことです。まことの神を知らない人々をまことの神への礼拝へとお導きすることです。

「人の心には神のかたちをした空洞部分がある。神のもとに立ち帰るまでは何をもってしても、心の空洞は満たされない。」とパスカルは人間の心を洞察しました。魂の渇きを満たす泉はどこに開かれているでしょうか。どこに心身の疲れを癒すいのちの水があふれているでしょうか。霊的な被造物である私たちは、神の御霊の満たしによって根元的な充足を得ることができるのです。

3 聖霊の力による宣教の共同体

聖霊は福音を宣教する情熱と力を教会にもたらしました。情熱とは失われ行く人々に対する重荷と愛を指します。それはイエス様の心の中に満ち満ちていた情熱でした。失われた1匹の羊を探し求めるイエス様の愛そのものでした。力は、神の御心に従おうとする意志から生まれます。滅び行く魂に罪の赦しと永遠のいのちを与えるためにイエス様は十字架の道を歩まれました。それは父の御心であったからです。前途にどのような障害や困難が立ちふさがろうともイエス様は屈することなく進まれました。

聖霊の力に満たされるとは、言葉を換えれば、イエス様の情熱と意志を受け継ぐことに他なりません。イエス様の愛を聖霊によって注がれること、それが聖霊の力を受けることです。宣教の力は、イエス様の情熱と意志を「継承」させていただくことの中に実は隠されています。人間の様々なプログラムや計画や企画の手を休め、イエス様をもう一度教会の中に回復して行くこと、宣教の力はじつはここに秘められているのではないでしょうか。

2001年6月3日