3月のメッセ−ジ   2001年

「奉仕をささげる誠実な態度」

「自分の宝は、天に蓄えなさい。そこでは虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからでする」(マタイ6章20−21節)

教会員の結婚式に出席するため、5年ぶりに韓国を訪問しました。ソウル市内にある総ガラス張りの教会として有名なメソジスト派インマヌエル教会(金クッド主任牧師 教会員数約2万5千人)で喜びに包まれて結婚式があげられました。翌日の主日礼拝では、高校生120名、壮年150名の聖歌隊が会衆讃美をリ−ドする中で礼拝がささげられました。今回、韓国を訪問して、教会の規模の大きさや人数の多さ以上に、奉仕をささげる一人一人の敬虔な姿勢に新たな感動を覚えました。

たとえば、礼拝で献金がささげられる時、献金を受け取る奉仕者たちが前列に並びます。男性は白手袋をはめ、女性は正装のチマチョゴリを着ます。会衆がささげた献金の入った袋を最後尾で受け取った後、当番奉仕者たちは献金台の前まで進み出て献金袋を台に置いて、会衆に丁寧に一礼してから席へ戻ります。

献金は「礼拝へと招いて下さった神様への信仰の応答、礼拝者たちの献身の告白」としての意味をもっています。そのように尊い祈りを込めた捧げられた献金に対して、正装した奉仕者たちが敬意を払って扱うことは神の御心にかなうふさわしい態度だと思います。小さな事柄の中に、いつも信仰の本質が問われている思いがしました。

インマヌエル教会の主任牧師クッド師のお母さんは4人の息子を韓国を代表する著名な牧師に育てた祈りの人でした。「季淑女・一粒の麦が地に落ちて」という彼女の伝記には、感動的な証しが多く綴られています。その中の一つのエピソ−ドを紹介させていただきます。

北朝鮮からの逃避時代、極貧の中にあったにもかかわらず家族で話し合って、一つは神様への献金のために、一つは日毎の生活費のためにと2つの鍋を用意したそうです。ところがある日とうとう生活費を入れた鍋は空になってしまい、6人の子どもたちの夕食の準備もできなくなってしまいました。子供にひもじい思いをさせたくない、そんな母心から、お米を1升分だけ買うお金を献金用の鍋の中から使わせていただこうと思い手を伸ばしたところ、年端もゆかない次男が「お母さん、これは絶対手をつけてはいけません」と止めたそうです。神様におさげするものは神様のもの、そんな信仰がいつしか、子供たちの中に芽生えていたのです。お母さんは涙を心に隠して、子供たちとその夜は食事抜きで眠ったそうです。

朝御飯に何かないかと思案したお母さんは、近くの酒工場に幼いクッド先生を行かせ、缶一杯の酒粕をもらってくるように言いました。工場の人は「おまえの家にはブタでもいるのか」と怪訝そうな顔をしたそうです。当時、酒粕はブタの餌として使われていたからです。お母さんは酒粕を水で溶いてキッカリンを少し入れて甘みを出し、お米の糟をすくうようにして子供たちに飲ませ、教会学校に送りだしたそうです。夕食抜きでお腹がすいていたところに酒糟を飲んだので、6歳の弟と8歳のクッド先生は、目がぐるぐるまわって大変だったそうです。千鳥足でふらつきながら教会学校に出席しましたが、大声で讃美を歌い出すとクラスの中がざわつきはじめました。「臭い、誰が朝からお酒飲んでいる!」と。

二人が帰ってくると今度はお母さんと兄さん姉さんたちが教会の礼拝に、鍋の中の献金をもって出かけました。1週間の生活の守りを心から神様に感謝し、献金をささげたのでした。ところがちょうどその日、知人が金さん家族の所在を捜し当て、はるばる訪ねてこられたのでした。時間がなくて大急ぎで帰らなければなりませんでしたので、お米が1粒もないことを知って帰りがけにお米やさんに寄り、驚いたことに80キロもの白米を届けて下さったのでした。

神様のものは神様のもの。与えられた神様の恵みに誠実にお応えしようとする者を神様はこのように支えて下さるのです。ですからクッド牧師は毎年1回、「エリアのカラスは現代の21世紀にも生きておられる」と題したメッセ−ジを語りつつづけているそうです。幼い日に身をもって体験したこの恵みを決して忘れることはありませんでした。

2001年3月5日