2006年 新年礼拝(2) 1月15日

 「人の能力によらず全能者の霊による恵みの働き」

                               ゼカリヤの神殿建設に学ぶ

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)

この箇所は日本バプテスト教会連合の2006年度の年間主題聖句です。創立40周年を迎えた連合は現在、北海道から兵庫県まで全国に59教会、信徒数2360名、牧師65名、宣教師6家族で構成されるバプテスト派の中堅団体ですが、50周年を目指してあらたな歩みを進めてゆくにあたりこの御ことばが理事会に示され、年間主題聖句として祈りのうちに導かれたと聞いています。

旧約聖書を学ぶ時の原則として、まず時代背景を理解しましょう。ユダヤ王国はバビロン帝国の侵略を受けて滅亡し、国民は奴隷として連れ去られ苦難の日々を過ごしました。しかしバビロンはやがてペルシャ帝国に滅ぼされ、ペルシャ国王クロスはそれぞれの民族を自分たちの土地に帰らせ祖国の再建を命じました。そこで約4万2千人のユダヤ人が総督ゼルバベル、大祭司ヨシュアに導かれ帰還しました。彼らはさっそく国家再建のシンボルとして破壊され瓦礫の山となって荒れ果てていた神殿の再建工事に取り掛かりました。ところが、相次ぐ妨害と困難の中で工事は中断し18年間の歳月(エズラ424)が流れてゆきました。民の心はいつしかこの世のことに傾き、日々の生活に埋没してしまいました。ところがBC520年、預言者ハガイと預言者ゼカリヤに神の霊が注がれ、神はゼカリヤを通してイスラエルの民に「神に立ち返り、神殿の再建工事に立ち上がる」(1)ように呼びかけ気落ちしていた民の心を覚醒させ励ましたのです。

権力とは人間の持つ組織的集団的な力、たとえば組織力、政治力、経済力などを指し、能力とは個人が有する様ざまな力を意味しています。

神殿再建という神の大事業を、人間的な熱心さや努力だけで完成させようとすれば挫折します。その証拠に、意気揚々と神殿再建に取り組んだイスラエルでしたが周囲の妨害や反対にあうといとも簡単に挫折し、18年間も工事を放置したまま神殿のことなどまったく関心をもたなくなってしまいました。神の御業は神ご自身が常に主導権を持ち、神の霊が導かれます。神の霊によらなければ神の宮の建設は完成しません。もっと明確に言えば、神がそれを赦さないのです。かつてダビデ王が神殿建設を願った時、神はお許しになりませんでした。人間的にいえば、ダビデ王は十二分な建設資金と豊富な建築資材、労働力を確保できていましたが、神は神殿の建設をダビデの後継者ソロモンに託しました。「神の霊による」とは、神のご承認に基づいてという原則を意味しています。

人間的な計画や資金力が神殿建設の鍵ではありません。むしろ、一人一人が神の霊に満たされ神に仕える信仰の心を回復したとき、神は神の宮を建設することをその民に許され、完成に導かれるのです。なぜなら神殿の建設は、「献堂」であり、私たちのささげる心の集大成でもあるからです。ですから建築ではなく、奉納あるいは奉献とも呼ばれています。教会建設の場合ならば竣工式ということばではなく献堂式ということばが用いられます。建て上げることが目的ではなく神にささげることが目的だからです。

今日、人間のもつ能力を結集すれば月にまで人類を運ぶことさえ可能です。人間の技術力は決して過小評価されるべきものではありません。しかし、聖い神の宮を建てるには神の霊の働きが無ければ不可能であるという事実を私たちは真剣に受け止めなければなりません。神の御心は、ただ単に建物としての神殿を建設させるためだけではなく、神殿建設に招くことによってイスラエルの民が信仰に目覚め、神に愛され選ばれ購われた神の民であることを自覚し、礼拝と宣教という本来のミッションを回復することにあったのです。このような目的を成就するために、神はゼカリヤを通してまず神に立ち返ることを求められたのでした。「神の霊による」とは、このように「神の真のご目的に基づいて」という原則を指しています。そして神の目的は預言者らの語る「神のことば」において啓示されることを忘れてはなりません。

「万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。・・万軍の主の御告げ。・・そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、
と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ1:3)


では、全能者の霊はどのように力強く働くのでしょうか。

「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と
叫びながら、かしら石を運び出そう。」(ゼカリヤ4:7)

「大いなる山」(6)とは現実的には、破壊された神殿のあとに放置されている瓦礫の山を指しています。工事はまずこの瓦礫を取り除くことから始まりますが、丁度淡路阪神大地震の後の神戸の町のようにどこから何をどう片付けたらいいのか手がつけられない状態と似てると思います。しかし神は「山も平地になる」と言われました。すべてが取り除かれ平らに整地されるというのです。もちろん神が一夜で奇跡的にすべてを片付けてしまうのではありません。

実際には、神の霊を受け神の霊に満たされた神の民が、「恵み、恵み」と神を讃美しつつ労苦を惜しまず、喜びを持って熱心に奉仕を捧げる姿が描かれています。「神の霊による」とは、神の霊に満たされた一人一人が献身的な奉仕が、再建工事の原動力となったことを指していると思います。

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ロマ12:11)と、パウロは献身的な愛の奉仕について教えています。

瓦礫をのぞき、地を平らに整地し、山から新しい岩を切り出し、運び、積み上げて石垣を作り、そこにまた新たな基礎を据え、柱を立て、壁を造り、屋根をふき、ついに神殿は完成するのです。「かしら石」とは完成式に用いる総仕上げ用の祝いの石を指しています。大きな喜びの中で神殿完成のクライマックスの儀式とも言える「かしら石」を据えることができるという大きな希望に満ちた光景がここに預言されています。

神の霊に満たされ、燃やされた人々のくちびるには、神の恵みを賛美する歌が尽きることはありません。

「彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」(ゼカリヤ4:7)

さて、この山は私たちの前に横たわっている難問の数々であると適応することができます。見ているだけでやる気が奪われ、考えただけで気が遠くなり、費用や労苦を計算しようものなら気が重くなるようなことがらが、しかもどこから手をつけたらいいのかわからないで山積み状態となっていま場合があります。しかし、それでも「山は取り除かれる」と信じることが大切です。「主に信頼せよ、そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」との信仰に堅く立つのです。「信じるならば神の栄光を見る」ことができるのです。

神殿完成の日には「この日をさげすんだ」(4:7)人々は大いに恥じ入ります。信じる者は神の栄光を見、信じなかった者は恥を見るのです。「神にはできないことはないと信じた者はなんと幸いでしょう」と言ったエリザベツとマリヤの喜びに共に預かることができるのです。私たちは臆する霊ではなく力と愛と慎みの霊を受けました。霊に燃え主に仕えるように召されました。神が味方ならば何をおそれることがあるでしょうか。いつでも信仰と希望と愛が私たちの人生を導くのです。

私たちは「鎖をつけられた像」になってはなりません。小象のときに足に鎖をつけられ杭につながれた象は大きくなっても「自分はひとりで歩けない」と思い込んでしまい、鎖の長さから外に出ようとしません。恐れが自由を奪い取ってしまったのです。どうしたら象は自由になるのでしょう。歩み出せばいいのです。恐れと不安の鎖を、ここから先へは進むことができないという思い込みをきっぱりと捨てることです。なぜならは鎖は足につけられているのではなく、心の中につけられているからです。恐れであれ、不安であれ、不信仰であれ、すべての鎖をキリストは断ち切ってくださったのですから。

先週の運営委員会で教会の将来についてフリ−ト−クをしました。遠慮なく自由に話し合いました。こうした話し合いの中で神様の御心や導きをお互いが聴き取り、学び、祈りあうことができると思います。私は神様から教えられたことを話させていただきました。

堀池チャペルがすぐに一杯になり、私たちは日曜日の礼拝用の部屋を探して2駅はなれた会館を5年間使用していました。その会館にも多くの人が集うようになり、私たちは新しい会堂の導きを求めて祈り出そうとしました。しかし、聖霊が留められたようです。なぜでしょう。私は2年間心に留めてその答えを神様が教えてくださることを待っていました。手狭になった教会堂とは異なる会館から私たちが祈ろうとしたからではないだろうか、祈り始める場所はここではないと神様は私たちに教えようとされたのではないでしょうか。1990年に当時で約5000万円の建物を、神の宮、キリストの体としてささげ、堀池チャペルと命名して献堂式を行い、宣教と礼拝の拠点としました。敷地が18坪しかなくてもここは多くの祈りと捧げ物と愛によって神様に献げられた聖い宮、礼拝堂です。キリストの霊が満ちた場所です。かつて使用していた会館のように、たばこの煙が廊下にたちこめていた集会所とは異なります。時間がくれば部屋から出て行かなければならない会議室とも異なります。「ここは聖なる地である。あなたの靴を脱ぎなさい」と神様がモ−セに命じられたように、私たちもこの堀池チャペルにおいて神の臨在を覚え、ひざまついて祈らなくてはなりません。この場所で祈らなくて他のどこで祈ろうとするのでしょう。ほかにどこに私たちの祈りの家があるでしょうか。私たちの祈りの家はここ以外にはありません。

人数が増えた、だから広くて安くて駐車場もある便利な場所へ移動したという、神の恵みを忘れた安直な発想を私たちは悔い改めなければなりません。「この場所から祈りなさい」と私たちに教えるための2年間であったのではと思わされています。

もう一度、この場所から祈りましょう。神様はいまこそ、祈り始めることをお許しになってくださっていると私は思います。2006年、主は祈りの扉を開いてくださったように思います。そう信じるかたがたから、新しい礼拝のあり方、礼拝の場所のため、将来の導きのため、遠慮なく祈り初めてください。何をどう祈ってもいいのです。祈りの霊がまず豊に働き、御ことばが示されてゆくプロセスを通して、神様の御心が私たちを一致へと導くからです。初めに一致があるのではなく、神の霊が真の一致へとすべての信徒を導いてくださるのです。

礼拝の度ごとに、献金の度ごとに、献身の祈りの度ごとに、食事の祈りの度ごとに、交わりで感謝と恵みを分かち合う度に、導かれるまま自由に声を出してこの場から祈り初めてみませんか。全能者の神の霊が働く時から神の御業が始まるのです。権力によらず能力によらず、神の霊によって神の御業は進むのですから。

歴史から学ぶ人を真の賢者だといいます。旧約の神の民の歴史から私たちは豊に学ばせていただきましょう。

 「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、
それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)

                                                                        


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