2006年 新年礼拝(1) 1月1日

 「私の助けは天地を造られた神から来る」

「 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。(詩篇121:-2)

あけましておめでとうございます。皆さんは今年どのような計画、目標、夢、ビジョンを抱いておられるでしょうか。

私は個人的に今年から新たに聖書通読に取り組もうと23年間使ってすっかりぼろぼろになってしまった聖書を新しく買い替えました。書き込みがない真新しい聖書を手に取ると、神様がこれからどんな語りかけをしてくださるのだろうかとわくわくしてきます。

「何も計画しないことは何も成功しないことだ」とある経営者は言っています。計画があればそこに努力も生じ、むろん失敗もありますが成功の喜びもあります。何もしなければ何の達成感もわいてきません。何の達成感もない生き方にはきっと喜びが伴わないと思います。達成感が伴わない生活は生きている実感がうすっぺらいものとなってしまうのではないでしょうか。人生には「できた」という喜びが必要なのです。何かの仕事にとり組もうとするときには必ずといっていいほどそこには困難が伴います。困難という壁や障害がない仕事などは実際には存在しないからです。しかし目標がはっきりしているならば、その困難は「苦しさ」ではなく「やりがい」となることでしょう。

1       神の助けを素直に求める

新年にあたり呼んでいただいた詩篇121編は、奴隷として異国の地に連れ去られたユダヤ人がはるかかなたの故郷の山々、特にエルサレムの丘に立つ都と神の神殿を想いながら、神の助けと守りを切に祈った詩であるといわれています。[] 異国の地で孤独と不安の中にある詩人は天地を創造されたまことの神の助けを仰ぎました。祈り求めることなくして神の助けを受けることはできません。そして神の助けを受けるには神の前にへりくだることを学ばねばなりません。信仰の最初のレッスンは自分の力を過信するのではなく神の前にへりくだることではないでしょうか。

「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(1ペテロ5:5)

私も若い頃は「神様に頼るなんて情けないことだ」と思い、信仰を馬鹿にしていました。結局は自分の力だけが人生の勝敗を決めるのだと思っていました。「神に頼るまえに自分を鍛えろ」そんな考えをもっていました。しかしその頼りにすべき自分の力がいかにもろくあてにならないものであるかをさまざまな失敗や挫折を通して知るようになりました。たとえ目に見えなくても神と神の力を頂きながら神とともに生きる「信仰の人生」があることを知るようになり、神とともに歩むことを願いバプテスマを受けました。私の罪からの救い主としてイエスキリストを信じたときから、私にとっての生きる原動力は「自分」から「神様」に切り替わりました。神の存在を信じ、神の助けを受けることは情けないことではなく、実に知恵あることなのだと知ったからです。

スズメは羽をばたばたさせて飛びますが、自分の力で飛ぶため長い距離を飛ぶことができません。上空高く舞い上がることもできません。ところがとんびや鷲のような大型の鳥はほとんど羽ばたきをしないまま、高い高度を保って長時間飛び続けることができます。なぜならば「上昇気流」をつかみ、風の道を理解しているからです。多くの渡り鳥、たとえばヒマラヤ山脈越えをする鶴なども高い山脈を越えるときには必ず上昇気流をつかんで一気に飛ぶそうです。そうしないとエネルギ-が切れてしまい墜落してしまうからです。風の道ができるまでふもとで待つそうです。

鷲が目には決して見ることができませんが、風の道を知っており上昇気流を用いて飛び続けるように、私たちも目に見ることはできませんが全能の神を信じ、神の御力を受けながら人生を生きることが可能なのです。それは神の御心にもかなった実に賢明な生き方でもあるのです。

「 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)

もし私たちが大きな計画、目標、夢をいだいているならば、その実現のためには、わしが翼を広げ上昇気流をつかんで高くそして長時間飛ぶように、神様の御力を信仰によって仰ぎ求め、受け取らせていただくことが目標達成、ビジョン実現への鍵になると思います。

2 天と地を創られた神から

古代人の多くは、高い山々を聖なる場所とみなして宮を建て神々を祭ったり、山そのものをご神体として崇拝したりしました。日本でも山岳信仰は今でも盛んです。とことがユダヤ人は例外でした。彼らは自然界に属する物と自然界を創造された神とをはっきりと区別することができました。ユダヤ人は民族の父祖であるアブラハム以来、山も海も空も地も自然世界そのものを形づくられた創造主なる永遠の神様を信じていたからです。
詩篇121編は、人生におけるあらゆる助けは天と地を造られた神からくると宣言しています。なぜならこのお方は「無から有を呼び出すことがおできになる」全能者だからです。そして全能者におできにならないことは何一つないからです。

私たちが信じている神は、人間が作った神ではなく、人間を創られた力ある神、永遠の神です。この全能者が全能の御腕をもって信じる者を下から支え、決して離すことなく、常に導き続けてくださるのです。この神様が味方であるならば何を恐れることがあるでしょうか。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、
だれが私たちに敵対できるでしょう」(ロマ8:31)

3 来る・守る

「助けは来る」ということばは「助けてくれるかもしれない」という推測ではなく、詩人の確信を表明することばとなっています。信仰的確信は実体験によっても裏付けられていますから、私の助けは神から「来ます」と信頼しきれるのです。愛の神は出し惜しみされることはありません。神の助けは信じる者に必ず来ます。問題はあなたが「待つことができる」かどうかです。神を信じることと、神の助けが来ると信じ信頼しきることとが必ずしも一致しないことが私たちの弱さです。あなたは今、直面している問題を前に、神の助けは「来る」と信じることができているでしょうか?。そればかりでなく、困難に直面している兄弟姉妹に対して、このことばを持って励ますことができているでしょうか?。

さらにこの詩121編の中には「守る」という言葉が6回も出てきます。永遠の守り手として保護者として神様は信じる者を導かれ「保護者」としてともに歩んでくださることが約束されているのです。

では、何をどのように神様は守ってくださるのでしょう。

第1に「朝も夜も休むことなく」神様は見守ってくださっています。第2に「出ると入る」とを守ってくださいます。新たな出発と安全な帰還、つまりスタ−トとゴ−ルを神様が守ってくださることを意味しています。未知なことに踏み出す時、とても不安になります。そのためなかなか思い切って進め出せないことがしばしばあります。神を信頼する者には神の守りがあることを信じて踏み出せるならばなんと幸いなことでしょう。

第3に「すべての災い」からも守られます。ただしこのことばは、すべての災いを100%完全に防ぎ、ゼロにしてくださると教えているわけではありません。押しつぶされてしまうような悲劇的絶望的な災いから神様は守られるという意味です。悩みが完全に無くなってしまう人生を私たちは望みますが、そのような人生は「墓場」の中にしか存在しません。私たちの人生には苦難困難が伴うものです。むしろ適切な悩みは人生のスパイスとも言われ、人間的な豊かな成長をもたらす人生の必需品でもあるのです。アラブ人の世界には「3日太陽が照ればやがて砂漠になる」ということわざがあるそうです。良いこと楽なこと苦労が伴わないことはかえって不毛の人生をもたらすという味わい深いことわざだと思います。

「災い」や「問題」ではなくそれは「達成すべき課題」と受けとめましょう。「困難」は「やりがいがある仕事」とリフレ−ム(考え方や受け止め方の枠組を変えてみること)するならば、きっと新しい世界が見えてくると思います。

私たちの人生は神様抜きの人生ではありません。全能の神・天地の創造者の御力に支えられ守られ導かれて生きてゆく素晴らしい人生です。天地を造られた神こそが永遠の助け主であり、唯一の保護者であることを1年の初めにあたりもう一度確認させていただき、神への感謝と賛美をささげましょう。


[]浅野順一 詩篇研究 p302
                                                            


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