復活日・イ−スタ−説教 (2006年4月16日) 
 
「イエス様はあなたがたとお会いになる」(マタイ28:1-8)

「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
(マタイ28:7)


今日はイースター、キリストがよみがえられたことを記念する喜びの日です。メリークリスマスという挨拶に代えて欧米の教会ではパッピーイースターという挨拶がされるようです。

イエス様の遺体に香油を注いで丁寧に葬ろうとしたマグダラのマリヤを初めとする女弟子たちがイエス様が葬られたアリマタヤのヨセフの墓に出かけた時のことです。墓の入り口を封印していた大岩が脇に転がされていました。「いったい誰が、どんな力持ちがこの岩を取り除いたのでしょう。墓の前に警護のために配置されているはずのローマ兵たちはいったいどこへ行ってしまったんだろう。ローマ総督の命令に反して職場を離脱することは死刑に相当する重大事なのに彼らはどこに消えてしまったのだろう。」 疑問に思いながら墓の中に入った彼女たちは驚きました。イエス様の遺体がどこにも見当たらず、遺体をくるんでいた布だけが置かれてあったからです。墓の中には光り輝く天使がいて、彼女たちにすばらしいメッセージを伝えました。

1に、「イエスはよみがえられた」という復活のメッセージ、第2に、「イエスはあなたがたとお会いになる」という再会のメッセージでした。

1 十字架につけられたナザレ人イエスはここにはいない、よみがえられたのです

ヨセフが提供した墓の中にはなにも存在しませんでした。なぜならイエスはよみがえられたからです。もぬけになった墓に特別な価値はありません。ですからキリストのお墓は正確に今でもどこに存在するのかわかりません。もっともイスラエルに行けば、聖墳墓教会があり、英国国教会が管理する「主の園」教会があり、キリストの墓とされています。ちなみに青森県三戸郡新郷村(旧、戸来 ヘライ村)にはイエスキリストと弟のイスキリの墓があると言われ観光名所になっているそうですがまゆつばものです。

本来、遺体や遺骨が埋葬されているお墓というものはどこの国においてもどの時代においても古代から非常に大事にされてきました。世界の4大聖人といえば釈迦、孔子、マホメット、キリストですが、釈迦は80歳でなくなり遺骨は8つに分けられ、後にはさらに8万の寺院に分けられ、なかでもクシナガルのニルバーナ寺院には釈迦の墓があり仏教徒たちの聖地とされています。孔子の墓は中国の山東省曲阜市孔林にありこの墓地には孔子一族19万基のお墓が立ち並んでいるそうです。マホメットの墓はサウジアラビアのメディナにあり年間2百万人のイスラム教巡礼者が訪れ、聖地として国家が特別管理しています。
 いわばこの世の宗教というものは、「死んで葬られた」教祖の教えと教祖の墓あるいは教祖の血筋を引く子孫によって構成されているといってもいいかもしれません。いいかえれば、「墓を訪ねる宗教」「死者に仕える宗教」としての一面をもっていると言えるでしょう。

しかし、キリスト教は死んだ人を墓に訪ね求める宗教ではありません。人類史上ただ一人、葬られた墓を空にし、絶対的な死の力を打ち破ってよみがえられた神の御子イエスキリストを信じる信仰に生きる宗教です。過去2000年間、キリスト教はイエスキリストの「十字架と復活」のメッセージを語り続けてきました。もしキリスト教会が復活について語らなくなれば、それはキリスト教会の死を意味します。それほど、復活のメッセ−ジはキリスト教会の生命線でもあるのです。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(1コ15:3−4)

「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(1コリ15:17−20)

もし、イエスの復活がなかったなら全国に約1万人いるキリスト教の牧師と宣教師は全員、世界一の大嘘つきということになります。優秀なミッションスクールが全国に多くありますが真理ではなくうそを教える大学になってしまいます。キリスト教式結婚式がほぼ6割以上を占めているそうですがその結婚式は初めから偽りの誓いをすることになり無効になってしまう可能性があるかもしれません。聖書は世界で一番多く読まれている永遠のベストセラ−ですが、世界中の人々をだましている最悪の本となってしまいます。しかし、事実「イエスは墓の中にはおられないのです」。「今やキリストは死者の中からよみがえられた」のです。そしてこの復活の事実の中に、死から永遠のいのちにいたる唯一の道が開かれていることを私たちは知ることができるのです。何と幸いなことでしょう。キリストがよみがえられたように、キリストを信じる者もまた、キリストのように死からいのちによみがえらされ、永遠のいのちと朽ちないからだを天から受けることができるのですからです。

「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの
手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)

ここに私達の最大の希望が輝いているのです。復活の希望は神様からの最大の贈り物なのです。

去年と今年は相次いで愛する兄弟たちを天国へ送りました。イエス様は私の父の家には住まいが多くあると言われましたが、天国の宇治バプテスト教会・マンションもずいぶんにぎやかになってきました。お葬式の司式をするたびに、悲しみと共に復活の希望への思いがいよいよ私の中では強くなってきています。考えてみると、「極楽で会おう」という人はあまりいません。「そんな縁起でもないこというな」と怒られるかもしれませんが、クリスチャンは人差し指を立てて「また天国で会おう」と、天国を指差しながらお互いが平安に語ることができるのです。なんと幸いなことでしょう。

ある牧師先生が臨終近いお父さんと御葬式の打ちあわせを病室でされていました。御父さんの希望は「ぜひ、結婚行進曲を葬式で弾いて欲しいとのことだったそうです。さすがにそれは遠慮させてくださいと親子で仲睦まじく談笑する二人を見ていたお医者さんが、クリスチャンの持っている「永遠のいのちの希望の大きさ」に深く心を打たれたとのことでした。

お墓が人生の終着点ではありません。立派なお墓を用意してもその墓の先に何もないならばそれは空しい人生と言えます。キリストは墓を空にして、復活され、墓の先に永遠の神の国があることをあきらかにしてくださいました。キリストを信じるならば、私たちもまたキリストと同じように復活のいのちとからだによみがえることができるのです。私たちも確かにひとり残らず例外なく、肉体の死を迎え、遺骨は墓地に納められ土から取られたのですから土に帰ってゆきます。しかし、私たち自身は、キリストにあってしばしの眠りから目覚め、キリストと同じように復活のいのちを体を新たに受け、神の国で永遠に生きることが赦されているのです。再会の御約束が与えられているのです。この希望がわたしたちを空しい人生観やあやふやな死生観から解き放ち、喜びと確かさと安心感へ導くのです。

2 ガリラヤ、そこでお会いできる

 天使はよみがえられたイエス様とあなたがたは再びガリラヤでお会いできると伝えました。「会う」と訳された言葉は「見る」という意味ですが、この場合、「その時、大いなる力と栄光をもって人の子が雲に乗ってくるのを見る」(マルコ13:26)と記されているように、復活された栄光のキリスト、そしてキリストの終末的な栄光を「見る」という意味です。

 ガリラヤで彼らはどのようにしてよみがえられたキリストと出合ったのか、ヨハネの福音書に詳しく記されていますが、マタイはただ一言簡潔に語っています。「そしてイエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した」(28:17)と。イエス様がよみがえられるまで弟子たちはイエス様を礼拝することはありませんでした。しかしガリラヤで復活されたキリストと出合ったときから、かれらの中にキリストへの真実な礼拝が始まったのです。真実な礼拝は復活されたキリストと出あったときから生まれるのです。

イエス様がわざわざガリラヤで弟子たちと会われたのには目的があったからです。ガリラヤは弟子たちの生まれ故郷であり、彼らが始めてイエス様と出会い「私に従ってきなさい」と招かれた場所でした。ガリラヤ湖の漁師であった彼らが、イエス様に召され、網を捨て船から降りて、イエス様に従った場所でした。いわばガリラヤは彼らの信仰の原点、献身の原点ともいえる場所でした。弟子たちを深く愛しておられたイエス様は、弟子たちを初心に導き戻し、復活のキリストとの新たに出会いを通して、一人の真実な礼拝者となってキリストに仕える新しい生涯を再出発させようと導かれたのでした。

この後、ふたたびエルサレムに戻った弟子たちはその後、ガリラヤに戻ることなく、エルサレムから、ユダ、サマリヤ、そして地の果てまで、「キリストの十字架と復活を語る」証人として遣わされてゆきます。そしてイエス様は彼らと「いつまでもとともにいてくださり」、彼らの人生を導かれたのでした。
         「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

十字架を仰ぐ時、感謝があふれます、キリストへの愛がみちてきます。この世界において唯一の救い主を知った平安に心が満たされます。そして復活されたキリストを仰ぐ時、賛美があふれます、キリストへの献身の思いがみちてきます。王の王、主の主であるお方を見、その御前でひざをかがめ心からの礼拝をささげることができるからです。

 私はカウンセラーとして奉仕させていただいていますが、人の悩みはカウンセリングが及ばない深さをもっていることをますます感じさせられています。ですからクライエントが十字架のイエス様と本当にお会いしたならば、彼らが苦悩するどんな良心の呵責や、自責や後悔からもきっと解放され、癒しと平安を受取られることがおできになるだろうな本当に思います。また、復活のキリストとお会いしたならばクライエントが抱える将来への不安や恐れ、あるいは自分の無力感、失望感、挫折感からもきっと引き上げられ、勇気づけられ、明日を信じて歩みだしてゆく霊的な力(私はこれを希望の力と呼んでいますが)に満たされてゆかれるだろうにと思わされています。イエス様こそが最高のカウンセラーであり、聖霊こそがもっとも力ある慰め主であられると、カウンセラ−歴20年の経験から実感しています。

 あなたはもうすでに十字架のキリストとお会いしましたか。あなたは復活のキリストとお会いしましたか。日曜の朝ごとに私たちは復活のキリストと聖霊に導かれてお会いしているのです。ここが私達のガリラヤではないでしょうか。霊とまことに導かれて真実な礼拝を、キリストがよみがえられた日曜の朝ごとに、栄光に満ちた王の王、主の主なる唯一のお方に、心をこめてささげてまいりましょう



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