2005年度召天者記念礼拝  「永遠の神の御国を想う」    2005/11/13



わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
ヨハネ14:2-3

クリスチャンは3つの住むべき家があります。第1は家族と共に住む自分の家です。ホ−ムスウィ―トホ−ムということばがあります。家族のあたたかい団欒にまさる幸せはないと思います。ハウスがあってホ−ムがないというわびしい家庭、家族としての絆が機能せず崩壊している家族も少なくありません。第2は信仰の家族であるクリスチャンとともに住む教会という神の家です。第3はイエス様が備えてくださった「天にある永遠の家」です。人の手によらない永遠の家が備えられていると聖書は教えています。

「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている」(2コリント5:1)
地上にあるもの、人間の手によって造られた建物は必ず壊れて朽ちてゆきます。教会堂も10数年経てば修理や修繕、時には立替も必要となってきます。しかし、天にある第3の家は朽ちることのない永遠の住まいと呼ばれています。

1「天には住まいが多くある」(2)とイエス様は言われました。

住まいということばは「マンション」(集合住宅)という意味だそうです。「なんだ、天国でもまたマンション暮らしか」と思う方がいるかもしれませんが、イエス様は建物の形について語っておられるのではなく、天国には永遠の家が「多く」あることをここでは強調されているのです。天国には住居の戸数制限はないという意味に理解したいと思います。つまり数に限りがあってある特別な人だけしか天国に入れないというわけではありません。多くの住まいが用意されているのです。少なくとも昔の団体旅行客のように「大広間でざこね」という状態ではないことを指していると思います。あなたがた一人一人にふさわしい住家が用意されていますよという確かな希望が語られているのです。天国へ行ったけれど住所不定・ホ−ムレスということは決してありえないのです。

2「わたしがまず行って場所の備えができたならあなた方を迎えよう」(3)とイエス様は言われました

天にある永遠の住まいは、初めからあるわけではなくイエス様によって初めて用意されました。イエス様が天に行かれるまではまだ完全な意味で用意されていなかった、あるいはまだそこに住む人を迎えることができなかったのです。なぜでしょう。それは私たち罪深い人間の罪の問題がまだ何一つ解決されていなかったからです。私たち日本人は「死んだらだれでも神や仏になる。死んだらすべてのみそぎが終わる。死んだらみんな天国へ行く」と漠然と考えています。ところが聖書にはそのような都合のいい教えが記されていません。むしろ、「人は一度死ぬことと死後に、神の裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:11)とはっきり断言しています。神様の御前に立つ時、「私には罪がない」と主張できる人がどれほどいることでしょう。残念ながら、聖い神の前で「自分は聖い」と主張できる人間などはないと思います。もしいれば大嘘つきか自分を正しく理解することができない人だと思います。年をとればとるほど自分の人生を振り返り罪深さを実感するのではないでしょうか。戦時中に犯した殺人の罪の呵責で今なお苦しんでいる方とお会いしたことがあります。神の前にもそして人の前にも「私には何一つ罪がない」といえる人はいません。

そこで私たちに必要なことは「神様から罪の赦しを」いただくことです。自分で自分の罪を償うことでは決してありません。

神の御子イエス様が十字架にかかり私たちの罪のみがわりとなって死なれ、3日後に復活されました。イエスキリストの十字架の死は、罪ある者の罪を御自分の死をもって完全に償ってくださった犠牲の死でした。それはあまりにも大きな神の愛を背景に持つ尊い死でした。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(1ペテ
224)「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ロ−マ58)

このようにイエス様によって十字架による罪の赦しという救いが完成したから罪深い私たちが天国に入る道が開通したのです。キリストを信じることによって救いを受けることが可能となったのです。それこそが「わたしが場所を備えに行ったなら」といわれた意味でした。

先ほどお写真とともにご紹介した召天者の方々は、その人生においてイエスキリストを信じ、罪の赦しを信じ、十字架の恵みを感謝して受け取られた方々でした。


3 教会をもう一つの「我が家」と呼ぶ

先ほど私たちには3つの住まいがあるといいました。地上の家庭、天の永遠の住まい、そしてもう一つはこの地上におけるクリスチャンの共同体である神の家、教会です。召天者の方々はイエスキリストによる罪の赦しを信じ、その恵みを感謝して受け取られた方々ですが、同時に教会という神の家で、お互いを兄弟姉妹と呼び合い、交わりを心から愛され、喜びとされ、共に神様に仕え、祈りを捧げてあった方々でもあります。教会をこの地上におけるもう一つの「わが家」と呼ばれ愛された方々でした。時には自分の家よりも教会を愛されるほど熱心な時もあったかもしれません。ですからご遺族の中にはさみしい思いをされた方もいらっしゃるかもしれません。それとも「うちのおばあちゃんは教会があればなんにもいらんわ」となかばあきれて、あきらめて納得してくださったご遺族もあるのではと思います。教会をもう一つの「我が家」と呼ぶことができる信仰の生活、それもまた恵まれた一つの生き方ではないでしょうか。誰とも話すことがないという孤独な生活とは異なる愛の交わりがそこには満ちているからです。

地上に存在するものは決して完全ではありません。家庭にも教会にもそれぞれ弱さがあり欠点があり課題があります。新婚の時は主人が二日主張と聞いただけでも悲しんだ若妻が、30年も立てば長期出張と聞いて目を輝かせてその日を指折り数えて待つようになります。夫婦の愛も時には冷えてゆきます。それどもお互いがどこかで感謝しあって修正しながら寄り添ってともに生きているのです。教会も毎年毎年いろんな課題に出会います。けれどもそのつど、共に祈り、考え、助け合いながらキリストの「教会」を建て上げてきました。それは教会を愛する純粋な愛がなければできないことです。クリスチャンにとって教会は仮の住まいではなく、この地上で神に仕え神と共に住む「我が家」としての価値をもつかけがえのない存在です。

私たちもいつの日か天の永遠の住まいに引越しする時が来ます。イエス様は「また来て迎える」と約束してくださいました。私たちが「行く」のではなくイエス様が「迎えにきてくださる」のです。しかも天の住まいが私のために備えられた時、イエス様が迎えに来てくださる。それがキリストを信じた者たちの「死の意味」でもあります。キリストにあって永遠のいのちをいただいているものに「死」は意味をもちません。クリスチャンは地上の家と教会から、永遠の天の住まいへ「移る」のです。何と幸いなことでしょう。家族からさびしく1人引き離されるのではありません。イエス様のもとに居らせていただく喜ばしい時なのです。

「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)