2003年度 新年礼拝説教                        2003-01-12

    「霊とまことによる神礼拝」

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。

父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝

する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23‐24)

日本バプテスト教会連合の今年度の主題は「霊とまことによる礼拝」です。厳しい時代に教会とクリスチャンが社会環境や時代の波に押し流されずに生かされてゆく道は「すべての祝福の源である主なる神様を仰ぎ見て、上からのいのちと力に満たされる」いがいにありません。そのためには日曜日の公同の礼拝、そして個人やグル−フ゜での礼拝によって神様との関係が深められることが大切になってきます。

1 いのちの水と礼拝

今日の聖書はイエス様が5人の男性と結婚を繰り返し今や6人の男性と同棲生活をしているサマリア人の女性を「いのちの泉」に導かれた有名な物語の箇所です。彼女は結婚生活に幾度も敗れました。一度の失敗から多くを学ぶことができる人と一度の失敗がさらに多くの失敗を生み出してしまう人がいます。彼女は後者のタイプのようでした。彼女は男性に依存することで自分の幸福を得ようとしたのかもしれません。結婚の理想が高すぎ現実に満足できなかったのかもしれません。渇ききった愛情に対する欲求があまりに強すぎたため結婚生活が破綻したのもしれません。理由は何も記されていませんが、彼女の生きかたは町の他の女性たちからも冷ややかに非難されていたようです。ですから人目を避けて真昼に一人、井戸に水を汲みに来たのです。

イエス様はそんな彼女を2度とかわくことのない永遠のいのちが湧き出る泉へと導かれました。結論的に言えば、「まことの神を霊とまことをもって礼拝する生活」へ招かれたのです。

私たちの渇いた魂や、満たされない心の渇きや、破れてしまった人間関係を、真の意味で癒し、うるおし、回復するものは、まことの父なる神を礼拝する中で、上からのいのちと力に満たされること以外にありません。あらゆる回復と祝福は神様への真実な礼拝から泉のようにわきあがります。これが聖書の約束です。神様の祝福を受け取るには祈りと礼拝という霊的な通路が必要です。

大阪平野一帯はどこでも地下1キロぐらい掘ると上質な温泉が湧き出るそうです。ですから天然温泉つきのマンションが最近次々と売り出されているそうです。地下に温泉が無限にあってもボ−リングをして水路をつけなければ温泉は湧き出てきません。イエス様はそこでまず、サマリアの女性に「私が与える水はその人の中で泉となり永遠の命への水が湧き上がる」(14)と、イエス様を信じる信仰を求め、ついでイエス様を救い主として遣わされた「父なる神を礼拝する生活」へと彼女を招いたのでした。

英語で礼拝を「ワ−シツプ」といいますが、それは「最高の価値を置く」という意味からきています。神様を礼拝することが私にとって最高に意味があり価値があることですという告白でもあるのです。このような思いで、神様を礼拝することを大切にし、人生でもっとも価値あることとする人々に対して、神様もまたその人を尊び、豊かに応えてくださることでしょう。

2 御子イエスの父なる神

さてイエス様は「サマリア人が神々を礼拝する神殿があるゲリジム山でも、ユダヤ人が神を礼拝するエルサレムでもないところで父なる神を礼拝するときが来る」「今がそのときです」(23)と言われました。「いま」とは、一人の罪びとが救い主イエスキリストと出会い、向き合い、御子イエスキリストのことばを通して父なる神様への真実な礼拝へと招かれている瞬間をさしています。サマリアの女性にすればイエス様の前に立っているまさにこのときがその「今」でした。

同じように、あなたが教会に集い、聖書の話をきいて「神の一人子イエスキリスト」を知り、イエス様の前に立つとき、そのときが「父を礼拝する時、恵みの時」の始まりなのです。

ここでのポイントは3度も繰り返されている「父なる神」ということばです。私たちは御子イエスキリストを通して始めて「御子イエスの父なる神と出会うことが許されます。

神ということばは日本人もよく使います。何しろ八百万の神々がおられる国ですから神様の数にはことかきません。ゲリジム山にもサマリヤ人の神々はいました。エルサレムにもユダヤ教の神を祭る神殿は建築されていましたが、イエスキリストの父なる神様はそこには臨在されませんでした。神を待ち望む真のイスラエル人たちに、ただ御子だけが父を現すことがおできになったのです。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、

神を解き明かされたのである」(ヨハネ1:18)

父なる神様は御子イエスキリストにおいてのみ私たちと出会ってくださるのです。誰も永遠なる神を見ることはできません。けれども、人となられ私たちと同じ姿をとられてこの地上に来てくださった神の御子イエスキリストがついに父を現してくださいました。御子を通してのみ、私たちは天におられる永遠なる神、創造主なる偉大な神を、「父なる神様」と呼び、親しい交わりの中に迎えられることが許されたのです。

3 霊とまことによる礼拝

さらに、御子イエス様は「霊とまことによって」父を礼拝する時が来る。「父なる神様はそのような礼拝者を求めておられます」(23)と説明されました。「霊とまこと」とは、人間の霊や誠実さ、熱心さを指すことばというより、「神の御霊」を指すことばと理解されています。

イエス様は老いた有名な学者ニコデモに「誰でも水と御霊により新しく生まれなければ天国に入ることはできません」と教えられました。それは神の御霊による新しい霊的な誕生を意味しています。生まれながらの人間は、きつねや蛇や狸でさえ神様と呼んで平気で拝むことができますが、聖書の神様を「父よ」と呼ぶことができません。天の父なる神様の子供として新しく誕生していないからです。父と子との関係が成立していないからです。

子供は親以外の人を「お父さん」と親しく呼ぶことはできません。教会に集う幼い子どもがときどき間違って私を「お父さん」と呼んでしまって照れくさそうにしているときがよくありました。

聖書は大切な真理を教えています。神の御子イエスキリスト「この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には神の子供とされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)

私たちはどのようにして神の子どもとされる特権を頂くことができるのでしょうか。不信仰な罪を悔い改め、キリストを救い主として信じるならば無条件で神の子供とされます。その信仰の心を住まいとしてイエス様が宿ってくださり、天の神様をイエス様のように親しく「父よ」と呼び、愛と信頼関係に生きることを可能として下さるのです。このようにして、神の御霊により神の子供が新しく誕生し、「父を礼拝する」真の礼拝者とされるのです。

そこにはもはやユダヤ人もサマリア人も異邦人も何の区別も差別もありません。すべての民に救い主イエスキリストを通して父なる神の栄光を崇める真の礼拝が用意されているのです。

 このようにして御霊によって新しく生まれた人々は、御霊に満たされ、日々御霊に従って生きることを願います。御霊は神の子どもたちの心に、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラ5:22)と言ったキリストのいのちを注いでくださいます。このような御霊の愛と喜びは、神様に対する関係においても、信仰の仲間たちに対しても、親子や夫婦関係においても、その他のすべての対人関係においても、真実で誠実な交わりを作り上げてゆきます。ですからしばしばクリスチャンは「あの人、変わったね」「まるくなったね」といつしか言われるようになるのです。

 御霊によって新生し、御霊によって満たされた人々の生活は、神様との関係においてますます誠実になります。神様への献身的な生活が整えられてゆきます。そしてこのような霊的な生活のすべてをもって神に仕え、真実な礼拝を捧げてゆくことを願うようになります。

「あなたがたのからだを神に受け入れられる聖い生きた供え物として捧げなさい。

それがあなたがたの霊的な礼拝です。」(ロマ12:1)

 霊とまことによる礼拝とは、このように「神の御霊によって新しく創られ、神の御霊によって導かれて生きる神の子供たちひとりひとりによって」ささげられる礼拝を指しています。

4 共に礼拝をささげる神の民として

旧約時代に荒野を旅する途上、モ−セは神様の指示に従い、天幕の中の一つを聖別し、そこに祭壇を築き、神の民が神を礼拝する聖なる場所としました。その特別な天幕は「会見の幕屋」(出エジ38:8)と呼ばれました。会見の幕屋が意味することは、「神がご自身の民と出会う」ための幕屋ということです。「神の民が神に招かれ、会見の幕屋において、神と出会い、神の臨在に触れ、神の栄光を崇める」こうした信仰的行為が礼拝であり、礼拝の目的は、「神のことばを共に聴き、一つの神の民として形成されてゆく」ことにあったのです。ですから旧約聖書では「礼拝」を表す代表的なことばは「カ−ハ−ル」であり、「共に集う」という意味があります。

この精神は今日もそのまま継承されています。イエス様も「2人でも3人でも私の名において集まるところには私もその中にいるからです。」(マタイ18:20)と言われました。ですから一人で礼拝することよりも、共に集い礼拝をささげることはより神様の御心にかなうことなのです。

今年は宇治教会が設立されて20年を迎える記念の年です。

この1年もまた「キリストの十字架の血によって贖われた神の民として」ともに集い、御霊に満たされ、御霊に導かれつつ、礼拝をささげてまいりましょう。この記念の年、キリストの尊い救いと永遠のいのちを頂き、神の子どもとされる特権と祝福を受ける人々もきっと多く起こされることでしょう。信仰から離れがちであった人々もリバイブされ、神様によって再び召し集められ、礼拝をささげるためにここに帰って来られるに違いないと信じています。

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝するときが来ます」(23)

このイエス様のことばが、願わくはあなたの家族の上に成就しますように。

                                                 

                祈り

       イエス様、この1年間も私たちをあなたの御霊で満たし、私たちを真の礼拝者と

    してお導きください。礼拝こそが私たちの祝福の泉、いのちと力の泉として備えら

    れていることを心から感謝します。人ではなくあなたと会うために礼拝をささげ尊ぶ、

    わたしたちでありますように。 ア−メン。