【福音宣教】  罪人を招かれるお方


「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17

1. 取税人レビの宴会に招かれた罪人たち

取税人レビはイエス様から「わたしについて来なさい」と招かれ、人々から嫌われ蔑まれていた悪どい収税人生活からきっぱりと足を洗いました。自分の広い家にイエス様と弟子たちをゲストに迎え、盛大な宴会を開いて、集った人々に神の国の福音をイエス様から語っていただきました。そこには多くの収税人仲間や大勢の罪人たちが集い、イエス様の語ることばに耳を傾け、食事と交わりを楽しんでいました。一方、戸口近くには一線を引いて距離を取り、そんな光景を冷ややかな視線で見ているパリサイ人と律法学者たちがいました。彼らは当時のユダヤ教の指導者たちでした。収税人というのは先週学んだように、正真正銘の「罪人」と呼ばれていた人々です。ではその他の「大勢の罪人」と呼ばれている人たちはいったいどんな人たちでしょうか。犯罪者集団、反社会勢力に属するような闇グループに属する輩を指しているのでしょうか。そうではなくパリサイ人や律法学者たちから、「罪人」というレッテルを張られ、律法を守らない、いいえ守れないような境遇に置かれていた人々を指します。具体的には貧しさゆえに身売りされた遊女たち、野宿しながら羊の世話をする羊飼いたち、ツラートと呼ばれる重い皮膚病を患い、人との接触を禁じられ隔離されていた病人たち、最下層の貧しい労働者たちを指していました。その中にはいわゆる文字通りの前科のある犯罪者たちも含まれていたことでしょうが、多くは当時、宗教的に差別され社会から疎外されていた人々でした。パリサイ人や律法学者たちは、自分たちは戒律や律法を厳格に守って生活をしている正しい者、「義人」であると称し、そうでない者たちを「罪人」とひとくくりにしてレッテルを張って差別していたのです。汚れた罪人という人々を作り出し、自分たちは聖い者、義人であると自称し優越感を覚えるという構造を産みだしてしまうことは、まさに人間のもつ罪深さそのものではないでしょうか。しかもそのことに全く気付いていいないこともさらに深刻な問題であったと言えます。

イエス様は収税人グループの頭であったザアカイに対してすら「罪人」とは決して呼びませんでした。ザアカイを「失われた人」(ルカ1910)と呼び、喜んで彼の家の客人となられ、彼の全家族を救いへと導かれました。一方、パリサイ人や律法学者たちは、自分たちが宗教的・差別的レッテルを張った罪人たちとは、いっさい話もせず、食事もともにせず、旅も仕事も決してしませんでした。彼らと交われば、穢れてしまうと考えたからです。

Ⅱ 罪人を招くために来られた救い主

パリサイ人や律法学者たちに対して、イエス様は「医者を必要とするのは病人である」と言いました。もしすべての人が健康であれば、この世界から医者も看護師も薬剤師も理学療法士も介護士も心理士たちも廃業になります。地図から病院のマークは消え去ります。ところが現実はどこの病院もごったがえし、救急外来には救急車がひっきりなしに重篤患者を運び込んできます。この世で生きる限り、人々は病に苦しみ、医者を必要とします。ところが律法主義者たちは、自分たちは健康であり、病んではいないと自負しているため、治療も癒しも医者も必要がないと錯覚をしているのです。「清く正しく美しく」は宝塚歌劇団のモットーですが、そんな理想世界はどこにも存在しません。聖書は「すべての人が罪の下にある。義人はいない、一人もいない」(ロマ39-10)と人間世界のありのままの現実を鋭くあぶり出しています。人々はみな、罪に悩み、苦しみ、傷つき、身体も心も病んでいます。それゆえ救いを必要とし、癒しを必要とし、罪の赦しを必要とし、罪からの解放を求めているのです。ですからイエス様は「わたしは来た。正しい人を招くためではなく、罪人を招くために」と宣言されています。来たという動詞は1度限りの徹底した完全さを意味する動詞時制が用いられています。罪人を招き、神の国の恵みの中に招き、神の臨在の内に神と共に歩むことができるため、父なる神が御子を救い主として遣わされたことを意味します。もし自分が神の赦しを必要としている罪人の一人であるとの自覚がなければ、救い主を必要とはしません。罪を赦し、罪の支配から神との和解と幸いな交わりの中へ、つまり神の御国へと招き入れてくださる救い主とはなんの関わりも持つことができないだけでなく、必要ともしないのです。しかし自分が罪人の一人であり、赦しと救いを必要としていると自覚している人々にとって、主イエスはまことの救い主として人生のただなかに来て、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげよう」(マタイ1128)と招いてくださるのです。この世には2種類の罪人しかいません。自分が罪人であることに気がつかない罪人と、キリストの十字架の死によって罪を赦され洗い清められた「罪赦された」罪人の2種類です。

 Ⅲ 神の憐れみを「行って学んできなさい」

マタイの平行記事(912-13)では、イエス様は旧約聖書マラキ6:6のことばを引用し、さらに丁寧にパリサイ人、律法学者たちに問いかけています。「わたしは、あわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んできなさい。私は正しい人を招くためではなく罪人を招くために来た」と。神は神殿でささげられる犠牲の供え物、大祭司による厳かな儀式、形式的な礼拝、空虚な祈り、戒律にがんじがらめに縛られた生活ではなく、神の憐み(慈しみ、愛、忠誠、真実とも訳せる言葉です)を、「もう一度初心にかえって学びなおして来い」と律法主義者や学者と呼ばれる専門家に向かって厳しく命じているのです。神の愛、神の慈しみ、神の真実を一体どこで学びなおせるのでしょうか。律法主義の中にですか?、厳かな神殿儀式の中にですか?、この世の道徳家たちの中にですか?、あるいは教育家の中にですか? いいえ全世界の罪人すべては、あのカルバリの丘の神の御子イエスキリストの十字架の贖いの中に、身代わりの尊い死の中に、「父よ、彼らを赦してください」と十字架上で祈られた主イエスの祈りの中に、神の真実な愛と慈しみをみることができるのです。私たちは十字架の中にのみ、罪人さえも愛される神の真の憐みを見出だすことができるのです。ここに真の愛があるのです。

十字架のもとに行って学んだ罪人は、その愛に満たされ、同じ罪人たちのもとへ、つまり「あなたの隣人たち」のもとへと遣わされるのです。神に愛され、神を愛し、隣人を愛し、隣人に愛されるという「神の真実な愛の再生産」、御霊の愛の交わりが生み出されるのです。
そうです。すべては御子イエスキリストの十字架から始まるのです。

学生時代に読んで大きな感動を覚えた信仰書があります。賀川豊彦の自伝「死線を越えて」です。5歳で両親を亡くし孤独な少年時代を過ごした賀川は16歳で宣教師に導かれ受洗し、牧師を目指して明治学院神学部へ進みました。ところが結核を患い、余命数年と宣告されました。それならば残された人生を生まれ故郷神戸の貧民街新川で、スラムの住民たちと共に生きよう、福音を必要としている彼らに伝道しようと決意し、移り住みました。奇跡的に健康を回復した彼は、様々な抑圧された最下層の人々の福祉の向上、社会活動運動を創出し、ノーベル平和賞に4度もノミネートされたほど全生涯をささげ尽くしました。上へ上へと目を向ける上昇志向の道しか知らなかった学生時代の私は、下へ下へと自ら選んで降りる道が人生にはあることを学びました。聖書はそれを「十字架を負って歩む道」と呼んでいます。主イエスはあなたを招くために来られ、十字架で死なれました。あなたに新しいいのちと生きる価値を与えるためによみがえられました。     
  あなたもあなたの十字架を負って、主イエスとともにこの人生を歩みませんか。