**元気の出るダイアル**  2021年5月9日
 

心や体の病気で苦しんでいる方々が多くおられます。病人は4つの痛みを抱えていると言われています。文字通りの体の痛み、早く治りたいという焦りや治るのだろうかという不安に苦しむ精神的な痛み、経済的な負担や周囲から落ちこぼれていくのじゃないかといった社会的な痛み、そして病気に対する差別や偏見、死の恐怖などの霊的な痛みです。

今も昔も病気に対する差別、偏見、誤解、中傷は多くあり、体の痛み以上にこころを深く傷つけています。

1)イエス様の前に、全身がレプラスと呼ばれる重い皮膚病に冒された男性が突然やって来ました。レプラスは軽い皮膚炎から肉や骨や神経まで冒されてしまう悪性のもの(ハンセン氏病)まで多種ありました。イエス様の時代の規定では彼らは「汚れた者」とされ、「宿営の外に、離れて住まわなければなりませんでした」(レビ13:46)。 やむを得ず町中に入る場合は、病気が感染してしまわないように口を覆い、「汚れた者」(レビ13:45)と大声で叫ばなければなりませんでした。人間としての尊厳が奪われてしまうほどの悲劇的で屈辱的な差別と偏見に置かれていたのです。しかも掟を破った場合には石打ちの刑に処せられました。ところが彼は覚悟を決めて、迷うことなくイエス様のもとにやって来て地にひれ伏し、こい願いました。「みこころなら、あなたは私をきよめることができます」と、イエス様の主権に信頼し願い求めたのでした。

2)するとイエス様は彼に手を伸ばして、体に触れ、「そうしてあげよう、きよくなれ」と権威をもって命じ、彼を癒してくださいました。当時、この病気の人に2m以内、近づいてはならないと禁じられていましたから群衆も弟子たちも驚きました。触らなくてもきよめることつまり病を癒すことがイエス様には可能だったにもかかわらず、なぜイエス様は、ためらうことな手を伸ばし、彼に触れてくださったのでしょう。いうまでもありません。 「イエス様の愛」のゆえです。群衆が彼に近寄らなかったのは「恐れ」があったからでした。一方、イエス様の中には「愛には恐れがありません」1ヨハネ418)と言われる「神の愛」が満ちていました。

想像してみましょう。いつから彼が重い皮膚病にかかり、家族から引き離され、人里離れた場所に隔離され、家族とも友人たちとも会うことも語り合うことも食事を共にすることも、握手することもハグすることも何もかも許されない、できない、そんな孤独の中に置かれていたことでしょうか、数か月、数年、いや何十年もの間としたら・・・どんな心境になるでしょう。人々からも社会からも忘れ去られ、人の手のぬくもりなど思い出せないほど冷え切った凍りつくような世界に生きていた。自分がひとりの人間であるという価値まで消え去ってしまうほどの闇の世界にいたといえるでしょう。あなたならば耐えられるでしょうか・・。ですから、たとえ病がいやされなくても、ひとりの人間として尊ばれ愛され、体にも魂にも触れていただいたことで彼は十分だったかもしれません。

イエス様は「私のこころだ、きよくなれ」とたちどころに彼の重い皮膚病を癒されました。

イエス様が行ったのは単なる「病気直し」という奇跡行為ではありません。この世から忘れられたような彼を見出し、人間性を回復し、神の国へと招き入れるという「救い」を彼の身に成し遂げてくださったのでした。これこそが「愛の御業」であり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と命じじられたイエス様の「究極の救い」だからです。

「心の貧しい人は幸いです、天の御国はその人のものだからです」(マタイ53

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