元気の出るダイアル  2020年3月15日    天の御国の弁護士

皆さんがもしトラブルに巻き込まれ、法律上の問題に直面したような時は誰に相談しますか。やはり法律の専門家である「弁護士」を頼りますね。弁護士は相談相手の立場に立って味方となり弁護をして守ってくれます。テレビ番組のニュースなどでは、複数の弁護士たちが被告を弁護している裁判の場面が放映されます。法律上の罪の場合、費用は掛かりますが、弁護士が守ってくださいます。では、神様の前における罪は、誰が弁護し守ってくださるのでしょうか。

ヨハネは、「光の子は闇の中を歩かない」と本来のあるべき姿を教えています。ところが、悲しいことに私たちキリストを信じる者たちといえども、正しく清く完全に生きることができず、悩み葛藤します。この自己矛盾をどう解決したらいいのでしょう。

聖書は「継続的習慣的な罪」の場合は「現在形」の動詞で表現するケースが多いのです。これは古い生まれながらの私たちに共通する罪の性質を指しています。一方、思わぬ失敗や瞬間的な過ちや罪の場合は「一度限りの出来事」を意味する「不定過去」という動詞が用いられる場合が多いようです。

たとえば、遊女だったと思われる一人の女性が律法学者たちによってとらえられイエス様の前にひきづり出されました(ヨハネ811)。当時、姦淫の罪は石うちの処刑と定められていました。イエス様が彼女を取りかこむ人々に「罪を犯したことがないものから石を投げなさい」と語ると、一人二人とその場から顔を伏せて離れ去っていきました。そうです!、罪を犯したことが一度もない、私は清廉潔白、完全な正しい人間ですなどと胸をはって言える人間はこの世界に一人もいないのです。自分の罪深さに気がつかず、目をつむり、にもかかわらず他人の過ち、罪咎を激しく攻め立てなじり、裁こうとする人間の罪深さをここに見ることができます。イエス様は彼女に「私もあなたを罰しない。もう罪を犯し続けないように(現在形)」と命じました。遊女の生活からこの機会にもう足を洗い、たとえ貧しく苦しくても自分の手で働いて誠実に自分を大切にして生きるようにと諭し、彼女を習慣的な「肉に属する古い生き方」から解放してくださったのでした。

イエス様だけが彼女のただ一人の味方でした。彼女のただ一人の弁護者はイエス様だけでした。イエス様は罪を裁くお方ではなく、罪あるものを弁護し、その習慣的な意図的な罪から解放してくださるお方、罪からの救い主なのです。このような働きをしてくださるお方をヨハネは特別に「パラクレートス」、罪人のかたわらに立って、慰め、励まし、赦しと力を与え、守り抜いてくださる天におられる弁護士のような存在と呼びます。

クリスチャンといえども、決して完璧な人間ではありません。さまざまな弱さを抱え、罪に悩みつつ生きています。天に召されるその日まで、弱い無力な私たちは失敗し、単発的に過ちを犯し、誘惑に敗北し、しくじり、「ああ、またやってしまった」と十字架の赦しを見上げつつ、悔い改めの日々を続けることでしょう。そうした日々を重ね、やがて神の審判の日を迎えます。しかし、まさにその時に、弁護士であるキリストが私たちのために傍らに立って弁護してくださるのです。「この罪人の罪はすでに赦されています。多くの試練と失敗の中にあっても、信仰に生きた光の子です」と。 なんと幸いなことでしょうか。        アーメン

表紙に戻る