55 ロ−マ人の手紙  題 「海を越えた愛の交わり」  2004/4/25

聖書箇所 ロマ15:22-29

「それからマケドニアとアカヤでは喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために献金することにしたからです。」(ロマ15:27)

           ――― 献金の聖書的意味をたずねて ―――

パウロは宣教師としてアジア・ヨーロッパ・ギリシャ地方を巡回し福音を伝え、教会形成に尽力してきました。パウロは個人的にはローマを経由して西のスペインに宣教したいとの計画を擁いていましたが、神の御心はパウロの思いとは異なっていました。マケドニヤ地方の諸教会の兄弟姉妹がユダヤのエルサレム教会が経済的な困難を極めていることを聞いて、自発的に献金を募ってパウロに届けて欲しいと願い出るというできごとがおこったのです。この自発的な愛の贈り物である支援献金を届けることは神の御心から出たことであると確信したパウロは、予定を変更してコリントからエルサレムに引き返す決心をしました。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8―9)。

パウロは御霊の力に満たされた人でしたが、御霊の導きにも従順な心をもっていました。いつまでも自分の考えに固執していては御霊の働きを妨げてしまうことになることを学んでいたからです。

1 マケドニアから始まった愛の献金

さて、アカヤとマケドニアの諸教会の兄弟姉妹の中に、迫害と飢饉で食糧が無く困窮しているエルサレム教会の貧しい聖徒たちを援助しようという思いが与えられました。パウロが提案したわけではありません。彼らの中から自発的にわきあがりやがてあふれるばかりに祈りは広がり、捧げ物が満ち溢れるようになりました。「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」 (2コリント8:2−4)とその様子をパウロは記録しています。

マケドニアの諸教会が裕福で富んでいたから援助しようとしたのでありません。平穏無事で特別な問題もなくゆとりがあったからというわけでもありません。むしろ反対に、激しい試練の中にあり極度の貧しさの中にあったにもかかわらず彼らの中から愛があふれ出ました。クリスチャンは決して貧しいから捧げることができないのではありません。どんな貧しさの中にあっても惜しみなく施すことができるのです。財布の中身を計算すればそれ相当の答えしかでてきません。しかし彼らは献金にあたって自分の財布の中身ではなくあるいは自分の置かれた生活状況でもなく、十字架のキリストの中にあるあふれるばかりの恵みを見つめました。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」 (8:9)

主イエスは十字架の上で全てを与えつくして貧しくなられましたが、その恵みによって私達は罪を赦され永遠のいのちを得ることができました。彼らは献金をささげるに当たって、惜しみなく与えつくしてくださった十字架のキリストとその恵みに深く思いを寄せたのです。

どのような種類の献金であれ、クリスチャンが神にささげる献金はキリストの十字架の恵みに対する感謝と献身のしるしとしての意味をもっています。それは一律の割合で負担させられる会費や分担金では決してありません。神の祝福を戴くための見返りのお賽銭でもありません。お話を聞いたお礼や講演料でもありません。

マケドニアのクリスチャンたちはエルサレム教会を助けるにあたって、十字架のイエス様にならって自分自身をまず主にささげたのでした。エルサレム教会に献金しようと志した彼らは、献金に先立ってキリストに自分を捧げていたのです。宣教師として彼らを導いたパウロ自身もその信仰に深く感動したようです。

「そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました」(8:5)

マケドニアの貧しいクリスチャンたちの中にあふれている主イエスへの献身の思いが、彼らのあふれるばかりの献金を支えていたのです。ここに成熟したクリスチャンたちの姿を見ることができます。

2 コリントの教会への呼びかけ

パウロはマケドニアのクリスチャンから始まった愛の募金が単なる経済的支援という目的をもつだけではなく、キリストにある「交わりの恵み」(2コリント8:4)に預かることでもあると理解しました。ですからこの交わりの恵みにコリントやガラテヤの諸教会の兄弟姉妹もともに参加することを願いました。そこでパウロはコリントの教会に献金の依頼の手紙を書き送りました。

「そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」

(2コリント10:5−7)

マケドニア教会のように自分たちから自発的に始まったことではない献金でしたから、コリントの教会の兄弟姉妹に対してパウロは気を使っています。教会の中になんとなく抵抗があったのかもしれません。献金は決して強制されるものではないからです。ですからパウロは繰り返し「惜しみながらではなく、いやいやではなく、強いられてではなく、一律にしてしまうのではなく、各自が祈って心で決めた通りに捧げるように」とお願いしています。献金はほんらい各自が祈って決めるものですが、パウロの時代も信徒の中には何人かで話し合って額をそろえてしまう動きがあったのかもしれません。

しかし結果的にみれば、パウロの呼びかけにコリントやガラテヤの諸教会の兄弟姉妹も喜んで「交わりの恵み」に参加し、彼らの愛の贈り物はパウロによってエルサレム教会に届けられました。こうして地中海をこえた、ヨーロッパとアジアの異邦人教会とエルサレムのユダヤ人教会の間に真の交わりが完成したのです。

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」

                    (詩133:1)

3 霊の恵みへの感謝

さてパウロはアカヤとマケドニアの教会から自発的に始まったエルサレム教会への献金は「感謝と献身のしるし」であるとともに、霊的な恵みを受けたものの「義務」でもあると理解していました。

「彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです」(ロマ1527

キリストの十字架の救いは、ユダヤ人にまず与えられそこから異邦人世界に宣教されました。異邦人信者がユダヤ人教会から受けた恵みをパウロは「借り」と言い、この霊的恵みに対して「生活物質、金銭など」をもってお返しするのは「当然であり義務である」とさえ言いました。

私たちは献金を「義務」と理解することに正直抵抗を覚えます。献金はあくまで自発性に基ずくものと考えるからです。しかし生粋のユダヤ人として幼いころより「十分の一の奉献」の教えを受けていたパウロにとって、神から受けたものを神にお返しすることは当然のことでした。

「あなたの土地の初穂の最も良い物を、あなたの神、主の家に携えてこなければならない」

(出23:19)

「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。

それは主の聖なるものである」(レビ27:30)

旧約時代の人々はモーセの律法に従って、地の産物の初穂、動物の初子のなかの最上のものを神にささげました。捧げ物が遅れることもありませんでした。ましてや残りものから神に捧げることなど決してありませんでした。奉献(ささげもの)はイスラエル民族としての神への義務であり、忠誠心のしるしでした。エジプトでの奴隷生活から救出して新しい約束の地に導きいれてくださり、何ひとつ持ち物をもたない奴隷生活から地の収穫を喜び祝うまでに豊かに祝してくださった大いなる神に、感謝し、その十分の一を奉献することは、贖われた民として当然の奉仕であり、神への忠誠心の発露でした。

義務(デューティ)と受け止めれば抵抗感が伴うかもしれません。しかし忠誠心(ロイヤルティー)からでるものであれば自発性と喜びが伴います。信仰は義務の世界ではなく忠誠心の世界だと思います。

ではなぜ神様は十分の一とお定めになったのでしょう。どうして十分の二、あるいは二十分の一でないのでしょう。そもそも天地を創造された神様は人間がささげる供え物など必要とされないはずです。地と地に満ちているものは全て主のものだから、不足などありません。「見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである」(申命10:14)。

実はこれらの奉納物は、神にささげられた後、幕屋や神殿で奉仕する祭司アロンの一族やレビ族の生活の糧を満たすために用いられました。彼らは土地を所有することも他の仕事に就くことも許されず、ささげられたもので生活することが命じられていました。そこですべてのレビ人が安心して生活し神にお仕えできるためには、レビ族以外の他部族が収獲の十分の一をささげることがふさわしと、神が知恵をもって基準をご判断されたのでしょう。そう私は受けとめさせていただいています。

「主はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物にかかわる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる」(民数18:8−9)

私達は、イスラエル民族が神を礼拝する民族であり、祭司を中心とした国家であり、祭司制度が尊ばれたことを理解していなければなりません。エジプトのように王を中心とした国家とは異なります。

「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出19:6)

ですから、このように霊的な祝福をとりつぐ祭司職にある人々の生活を、捧げ物という物質的なもので支えることを神は定め(民数18:10−12)、ないがしろにしてはならない(申命12:19)と戒めました。こうして考えてみますと、十分の一の奉献を律法的に「額」の問題としてとらえることよりも、神に仕えて霊的な祝福を民にとりつぐ祭司を尊び、信仰によって生活を支えるという愛や祈りという「質」や「意義」の問題として理解することがむしろ大切ではないでしょうか。

こうした旧約聖書の祭司制度の考えをパウロは、キリスト教会の働き人にも適応したようです。献金を私欲で使っているという誤解と批判を避けるために状況に応じてパウロは天幕づくりをしながら働きましたが、パウロは信徒の献金によって働き人の生活が支えられことをはっきりと主張しました。

「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます」(1コリント913-14)。

考えてみればイエス様の宣教の働きも、多くの女性たちの献金と奉仕によって支えられていました。

「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった」(ルカ83

献金の話しをすることを、牧師はしばしば躊躇します。求道中の方々に「教会も金儲けかと」いう間違った印象や誤解を与えやすいからです。しかし、聖書から正しく献金について信徒に教えることは牧師の仕事だと思います。また信徒は聖書から正しく献金について学ばなければなりません。献金の意味が正しく聖書から教えられるとき、イエス様の十字架の恵みに対する私たちの感謝と献身の姿勢も整えられるのではないでしょうか。このことは主のみこころにかなう喜ばしいことだと私は信じます。

教会で神に捧げる献金は、

1)十字架の恵みに対するキリスト者の自発的な感謝と献身のしるしです。
十字架の主イエスにならい、私達もまたみずからを神にささげる献身のしるしとして、献金の意義を理解することが大切です。

2)教会において、みことばと祈りの奉仕に仕える働き人たちを支えるキリスト者の愛の奉仕です。
旧約時代にイスラエルの民は収穫の十分の一の奉献をもって祭司職の生活を支えることを義務として命じられました。教会において、みことばと祈りの御奉仕をになう働き人を、キリスト者が献金をもって支えてゆくことは神の御心にかなった愛の奉仕であり、神が喜ばれる善きわざです。

このような意義を持つ献金を通して、すべてのキリスト者の交わりが深められ、教会に託された宣教の働きが進められてゆくことは、神の国の到来をゴールとする神の永遠のご計画にかなうことです。

「神は喜んで与える人を愛してくださいます」(2コリント9:7)


     

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