48 ロ−マ人の手紙  題 「三猿精神から脱却しよう」  2004/1/18

聖書箇所 ロマ13:1-7

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、
存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」
(13:1)

キリスト者の生活指針・ガイドライン(6)

13章のテーマは市民生活です。1−7節では特に「政治との関わり」について語られています。

今年は猿年ですが、いつしか「言わざる見ざる聞かざる」の無関心精神が日本国民のDNAにすりこまれてきました。最近は出る釘は打たれるというので「動かざる」というのも加わったようです。「言わざる見ざる聞かざる動かざる」と4拍子そろえばしらけてしまいます。日本人の政治的無関心さは深刻な事態に陥っていると言われていますが、背景にはこのような精神構造があるのかもしれません。

皇帝ネロによるキリスト教会にたいする残虐な仕打ちを知りつつ、パウロは信徒たちに、「上に立つ権威に従いなさい」と指導しました。その理由は、「政治的な権威や国家の権力は究極において神から来るものである」()ことを教え、神の権威に服するためでした。国家は人々を「益する」ために立てられた神の「制度」「しもべ」であり(4)、法律的にも良心においても権威に従うことがもとめられました。具体的には多くのユダヤ人が強い抵抗を抱いていたローマ政府に対して税金を納める納税義務にも忠実であるように(7)と明確な指針が示されました。

1 国家権威への尊重

パウロの教えを要約すると、「神は国家を人々のための公益の器として用いられる。」[i]ので尊重すべきということに尽きます。国家の権力が健全に機能しているところでは、法の秩序が保たれ、社会の治安と平和という公益が維持されます。このことはすべての権力の上に座しておられる神の御心にかなうことです。それゆえ、ローマ皇帝の政治的権威も神の僕として国民に公の利益をもたらしているゆえに尊重しなければならない。国家権威に背くことは神に背くことでもあるとみなしたのです。

今日、このようなパウロの教えに対して、国家権力への追随であると反論や疑問や問題提起が出されます。[ii] [iii] 教会を迫害者した歴代のローマ皇帝たちや、日本のキリシタンを弾圧した秀吉や徳川幕府も、600万人のユダヤ人を虐殺したヒトラー政権もみんな神の僕であるのか、イラクのフセイン独裁政治も北朝鮮の金総書記長の政治権力も神が立てられた権力であり、服従するのがクリスチャンの選ぶ道なのか。国家権力に抵抗することは神に対する罪なのかと。

私たちはパウロの意図を正しく理解しなければなりません。パウロの主張は、「国家そのものを原則的に否定するラディカルな立場に対する」、[iv] 反論であり、「国家の権力は神から委託されて初めて成り立つ」と主張し、多くの過ちや危険性を否定できないが、だからといって「国家の存在や権力そのものを廃棄してしまうことはできない」という原則的な前提を強調したのです。

パウロの時代に歴史家が認めているように、ローマ皇帝の権威によって「ローマの平和」と呼ばれるような社会安定と政治秩序が打ち立てられ、法が整備され治安が回復し、市民生活が大きく向上しました。初代教会においては、それゆえに市民の義務として、税を納めることが推奨され、国家のために祈ることが指導されました。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」1テモ2:1−2 

神が立てられたしもべであるがゆえに「国家に対する敬意と服従を惜しまない。」、これが政治に対する関わりにおける基本的理解でした。

2 国家権力の限界

「国家に対する敬意と服従を惜しまない」パウロでしたが、「国家の絶対的主権」を決して認めませんでした。このバランス感覚がパウロの特徴的視点でした。国家は神に仕える僕にすぎず、その権威には制限と限界がおかれていると鋭く理解しました。神の国の到来という終末論的視点から見れば、いかなる国家も過ぎ行くこの世の一部にすぎず、永遠の存在ではありません。地上の国家とキリストの御国とは異なります。クリスチャンの国籍は「天にあり」(ピリ3:20)、地上の権威に属しません。このような考えは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神のものに帰しなさい」(マタイ22:21)といわれたイエス様の教えと完全に一致しています。この世の国と神の国とのあいだには明瞭な境界線がひかれており、神の国の権威に従うことが神の国に国籍を持つ市民の第一の義務とされていることは明白です。それゆえ、もし地上の国家権力が自己を神のごとく神格化し絶対化するようなときは、教会は「人に従うよりは神に従う」(使徒5:29) 道を迷わず選択しました。

初代教会が示した抵抗は、どんなに制止されようと、今までやってきたことを止めないという実にシンプルな抵抗でした。国家への暴力的反逆や政治的革命を志したわけではありません。「福音の宣教をやめないこと」「キリストを主と礼拝することを貫くこと」の2つに徹したのでした。そのために投獄され、弾圧されても宣教の炎を決して消しませんでした。エルサレムを追われた信徒はアンテオケなど他の町に移り住み、再び宣教し教会を建て上げました。もし投獄されれば監獄で他の囚人に伝道しました。権力者たちはどうにもとめようがなかったのです。ですから防ぎようがない「疫病みたいな存在です」と迫害者に言わしめ、無力感さえ与えたのでした。

私たちも、初代教会の信徒たちのように、礼拝すること宣教すること、この2つを決してやめてはなりません。これが権力者たちに対するクリスチャンの抵抗の原型です。

3 具体的な現代の市民生活

以上のパウロの教えから国家とどのような関係を保つことが今日において御心に適うことでしょうか。

1 法を尊び、法を創り出す 

日本は法治国家であり、国民に主権があり、国民の代表者からなる国会において、民主的方法によって法律が成立し施行されます。ですから、法を遵守することは国民の義務です。逆に人権が侵害されているときは国を相手に法的な権利をはっきりと主張する(使徒22:25−29)ことも大事です。さらに政治に無関心にならず、悪法の成立を阻止したり反対運動を展開したり、なおざりにされている未整備のままの法律を積極的に創り出すことにも力を注がねばなりません。通り魔殺人事件の犠牲者になった息子さんの父親が社会や国を動かし「犯罪被害者給付金制度」を作り出しました。ストーカー犯の犠牲になった娘の死に怒りを覚えた母の運動がきっかけになり「ストーカー法」も制定されました。法は政治家ではなく市民一人一人が作るものです。法を守るだけではなく法を創りだすことも国家との正しい関わり方なのです。

2 投票の権利を行使する

パウロやペテロの時代は、皇帝の専制独裁政治体制でした。ですから「祈ること」(1テモ2:1−2)しか政治的参加の手段がありませんでした。しかもクリスチャンの多くが奴隷や女性でしたからなおさらでした。しかし今日はまったく状況が違います。私たちには祈ること以外に、投票という政治参加への直接的な意思表示のための手段があり、20歳以上の男女に等しく国民の権利として賦与されています。政治的関心をもち、しっかり学習し、投票という権利を行使し直接政治に関わる、それがまさに「祈る」ことにほかなりません。

3 政治問題をしっかり考える

今年は国のあり方が問われる参議院選挙があり、いよいよ第9条「戦争放棄」条項の削除をターゲットにした憲法改悪論議の火蓋がきられようとしています。自衛隊がイラク本土に事実上「派兵」され、戦後曲りなりにも保たれてきた安全保障の枠組みが崩されました。武器輸出3原則の見直しが公言されました。将来非核3原則も見直されることになりかねません。「原理原則」を持たない日本の国では「なしくずし」現象がいとも簡単に起きてしまうことが一番危ないことです。

政治のことは「関係ない、わからない」とのんきなことを口にしている時ではありません。漫画よりも新聞を読まなければなりません。テレビ欄よりも政治欄に目を通さなければなりません。普段から政治的な動向に注意を払い、家庭でももっと話題にすべきです。今年は猿年ですが、「言わざる、聞かざる、見えざる、動かざる」のような無関心なあり方こそ、悲しむべき罪であると自覚したいものです。

この地上にキリストにまさる主権者はおられません。私たちクリスチャンは、キリストの主権のもとに生きている御国の民であることを自覚し、いかなる権力・試練・迫害・障害にも「キリストを礼拝すること、キリストを宣教すること」を停止させられてはなりません。

国家に対する義務を果たしつつ、天の御国にたいする奉仕を忘れてはなりません。

国家に対する納税を果たすように、天の蔵に富を積むことをないがしろにしてはなりません。

神の権威のもとにしもべとして立てられた国家のあり方をしっかりと見極め、考え、祈り、行動して行くことが今、求められています。パウロの精神を継承してゆきたいと願います。


[i]NTD 新約聖書 ローマ人の手紙 p329

[ii]NTD p330 E・ベルニコル 祝賀記念論文集 1961 パウロの文章ではないと断言し、2世紀になって付け加えられたものであると主張。

[iii] NTD p331

A・シュバイツアーはユダヤ教伝統から受け取った理論をそのまま語っているだけで経験的事実がどうであるか一向に介しない。

[iv]NTD p331

宗教改革者のカルバンも「いかなる暴君の専制といえども、ある程度まではやはり人間社会を守るために役立っているのだ」語っているように、たとえ残虐な非人道的専制政治が行われていたとしても、そこではある程度の秩序が成り立ち混乱と破壊を防ぐ力となっている事実もまた見落としてはならないからです。


     

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