46  ロ−マ人の手紙  題 「偽りのない愛」  2003/11/29

聖書箇所 ロマ12:9-12

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬を持って互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
(12:9−10)

キリスト者の生活指針・ガイドライン(4)

パウロはクリスチャン生活についてのガイダンスを語る中で、教会の兄弟姉妹との関係について触れてゆきます。私たちはさまざまな人間関係の中で生きています。もっとも身近な家族関係からはじまり、友人関係、職場や地域の人々との関係にまで人間関係の輪は広がります。できる限り友人関係のネットワークは広く持つにこしたことはありません。むろん交友関係が広いことはそれだけ煩わしいこともまた増えるということを引き受けなければなりたちません。ですから、少人数の人々と質の高い交わりを大切にすることもまたひとつの生き方だと言えます。「友達100人できたかな」などという歌に惑わされる必要もありません。

さてクリスチャンである私たちには、家族関係の次に大切な信仰の仲間同士の交わりという人間関係があります。パウロは「兄弟の愛をもって互いに慈しみ、進んで互いに尊敬しあいなさい」(10)と語っていますが、信仰の仲間同士の愛を「兄弟愛」フィラデルフィアと言います。アメリカ東部には16世紀にウィリアム・ペンによって建てられたフィアデルフィアという名の町があります。彼らは退廃し荒れすさんだイギリス社会から脱出し、新天地アメリカに兄弟愛に満ち満ちた理想的な町づくりをしようと志したのでした。

聖徒の交わりである教会を束ねる「兄弟愛」には次のような特徴があります。

1 偽りのない愛です。

 「愛に偽りがあってはなりません」(9)とパウロは語ります。偽りと訳されたことばは「おしばいや演技」[]を指すことばです。演技は緻密に計算されています。言葉も間合いも立つ位置すらも決められています。何度もお稽古を重ねて作り上げて完成してゆきます。どこでどう話すかすべて決まりきった約束事に立っています。寸劇や喜劇でない限りアドリブが主役ということはありません。しかし緻密であるがゆえに、いっけん美しくりっぱにみえても、人柄がにじみ出てこない場合や魂がこめられていないことが起きてきます。

偽りのない「愛」だからといって、完璧なもの完全なものが求められているわけではありません。イエスさま以外に真実な愛、計算をまったく捨てた自己犠牲の愛、無償の愛を全うすることができた人間などは存在しません。私たちは互いに完璧さを要求するのでなく許しあうことを学びあうしかないのです。

パウロは計算されつくした演技的な愛ではなく、もっと魂の奥からあふれてくる愛を強調しています。損得や計算を超えて、もっと深みからこみ上げてくる愛、私はそれを「魂のこもった愛」と表現したいと思いますが、そのような愛を大切にしたいのです。思いを超えておなかの底からわきあがってくる熱い思いが込められた言葉や行動、それらは「魂からあふれる、魂のこもった愛」なのです。あるお母さんは息子さんが警察に補導されたとき、息子をなじるにではなく、とっさに警察官の前で土下座して「申し訳ありませんでした」と謝りました。その姿を見ていた息子さんの仲間たちは驚き「お前のおかんはほんとうにおふくろやな」と言ったそうです。彼らが非行から立ち直ったことは言うまでもありません。

魂のこもった愛は、人の魂に訴えかけ、人を動かす力をもっているのです。

2 互いに慈しみ、互いに尊敬しあい(10)とあるような「相互的」な愛を特徴としています。

兄弟愛は決して上から下へという1方通行的な愛ではありません。兄弟愛はいわば「肩をならべる」愛といえると思います。正面か抱き合う男女の愛、後ろから抱きかかえる親子の愛とは異なり、肩をならべ、肩を抱き合うような愛のあり方です。

私は、学生時代スポーツをしていましたから、全力をつくして試合に勝ったときなど、感激して先輩も後輩もなくコートの中で肩を抱き合って喜び泣いた覚えがあります。年齢さ、男女差、身分さ、貧富の差さえ越えて皆が1体となるような愛。何よりも分かち合うことを喜びとする、「わかちあう愛」ともいえます。

「泣く者とともに泣き笑う者とともに笑う」(15)という、共存共生的な愛に生きることです。

笑う者と共に笑うことは難しいものです。人の悲しみや痛みには同情しやすく、共感性も高まります。しかし、他の人が成功し、祝福されるのを見て、素直に喜ぶことが難しく感じてしまうときがあります。ねたみやしっとがあると素直に人の成功を喜べないからです。「それに比べてどうして私だけが」と言うような自己卑下や自己憐美に陥ってしまうこともあるからです。

現代社会は中高年にとってはかつて経験したことのないような厳しい時代となっています。職場で抱えるストレスは深刻なものがあり、年間3万人にものぼる自殺者の多くは中高年の鬱病患者たちともいわれています。家族に心配かけまいと自分ひとりですべてを抱え込んでしまう傾向も強く見られまう。教会の中に、悲しみや痛みを分かち合う兄弟たちがいることはどれほど大きな支えとなることでしょう。成功や祝福をも心から喜びわかちあうことができる、「肩を並べて共に生きる」兄弟がいることはどれほど大きな励ましとなることでしょう。

3 相手を尊敬する愛です。

パウロは「互いに尊敬せよ」(11)と奨励します。「へりくだった心を持って互いに人を自分よりすぐれた者としなさい」(ピリピ2:3)とも強調しています。自分より優れているから尊敬するというのは自然の情からでてくる思いです。しかしこの考えでは自分より優れていないと思う人は尊敬できないことになりかねません。「妻は夫を敬いなさい」と聖書は夫婦関係について教えていますが、中にはご主人に愛想がつきて、「ちゃんと敬われるような夫だったら私でも敬うわよ」と反論したくなる奥さんもいるようです。

パウロは「まずあなたから相手を敬いなさい」と教えています。人に先立って、つまり相手より早くまず自分が1段下がるのです。そうすればおのずと相手は1段上になります。そして誰であれ、自分が「尊重」され「敬まわれている」と感じることは心地よいことですから両者の親密度は高まることになります。コミュニケーションの世界では、これを「ワンダウン・アプローチ」と呼びます。効果的であり、相手の信頼感を得る大切な技術とされています。自分と考えが違っていても、「普段から本当によく勉強されていますね。すばらしい。私にこの点ではあなたがどのように考えておられるのか教えていただけませんか」と依頼すれば、決して敵をつくらなくて済むことになるでしょう。自分では気がつかなかったすばらしいアイデアを得ることさえ可能となります。低落し「朝日ではなく落日ビール」と陰口をたたかれた名門アサヒビールの再健を託されたクリスチャンの樋口廣太郎氏は、ライバル会社の社長たちのもとを訪れ、「わが社のビールが売れないわけを教えてください」と教えを謙虚に希ったそうです。社長たちは心地よく樋口氏を迎え親交を深め合ったそうです。

兄弟愛は感情によって支えられているのではなく、互いへの尊敬の思いによって支えられているのです。

4 兄弟愛は「主への奉仕」を目的とします。

「熱心でうむことなく霊に燃え、主に仕え」(11)とあるように、兄弟愛は「主に共に肩を並べて」仕えるという共通の目的を持っています。親子の愛情のように本能的なものとはことなります。また男女の恋愛感情のように異性である相手と2人だけの世界をつくり第3者の介入を退けるものとは異なります。兄弟愛は熱心に聖霊に満たされ「主に仕える」という共通の目的に束ねられています。

教会においては「神を愛する」「主にお仕えする」という1つの愛が私たちを束ねているのです。ことばをかえれば、私たちは神に愛されているという喜びにおいて一つに結ばれているのです。

パウロは、主に仕えることを具体的に語ります。

1 祈りにおいて仕える事

主への奉仕の始まりは祈りであり、終わりもまた祈りです。私たちの主イエスさまのご生涯も、荒野での40日間の祈りから始まり、ゴルゴダの丘の祈で閉じられています。祈りがあるところに神の御霊もお働きになります。皇帝礼拝が次第に強制され、クリスチャンへの迫害が始まりつつある厳しく困難な状況へ進みつつありました。そのためには「望を抱いて」(12),常に先に見ること、そして目を上に向けるてたえず「祈る」ことがもとめられたのです。

2 貧しい信徒を援助し、巡回伝道者や迫害で追われた信徒をもてなし受け入れることが奨励されました。愛は実践されてこそ値打ちがあります。美辞麗句、形容詞だらけの愛は「お芝居の愛」に過ぎません。肩を並べ共に生きることを志す兄弟愛に生きるものがどうして貧しい人々を顧みないでおけるでしょうか。愛の反対語は憎しみではなく無関心です。

「世の富を持ちいながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(1ヨハネ3:17−18)

兄弟愛、それは「魂のこもった愛」です。そして「肩をならべて共に生きることを願う愛」です。そのような愛は、「主に仕える」という共通の目的で堅く私たち信徒を束ねます。兄弟愛は実践する愛、行動する愛ですから、貧しい人への援助を惜しむことはありません。そして何よりも共に祈ることによって「主に仕える」喜びへと、例え艱難の中にあっても導かれるのです。そのような兄弟愛が育まれる唯一の場、それが教会なのです。

                      祈り

主イエス様、私たちの交わりをさらに豊かに深め、広がらせ、高めてください。

兄弟愛を目に見える形で表し、兄弟愛に共に生きることを導いてください。


[] 松木治三郎 ロマ人の手紙 p447 

  偽り(アニュポクリトス)はというのはむしろお芝居や偽善の意味である。愛は芝居や偽善になりやすい。愛は純真でなければならない。悪を嫌悪し善に愛着する。


     

Copyrightc 2000 「宇治バプテストキリスト教会」  All rights Reserved.