29 ロ−マ人の手紙  題 「神の御手に支えられた人生」 2003/7/27

聖書箇所 ロマ8:28−30

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」
(26-27)


評論家の斉藤啓一氏は、精神科医のX・フランクルに関する著書「フランクルに学ぶ」(日本教文館)の中で、フランクルが不眠症の患者の治療をした話を記しています。フランクルは、不眠で悩む患者さんに、「眠る努力ではなく眠らない努力をしましょう、逆に何時間起きておれるか記録にとりましょう」と提案しました。翌朝、看護婦がベットに行くと彼女はぐっすり眠っていたそうです。神経症タイプの不眠症患者は、眠るために努力する、つまり「戦う」という特徴をもっています。一生懸命眠るために闘おうとするから眠れなくなってしまう。眠れないから眠らないでおこうとすれば、戦う必要が無くなり安心でき、緊張感がゆるみ自然の眠りに入ることができると考えたのです。

眠るとは眠りに身を委ねることです。けれどもこの世界に対する根本的な信頼感が欠如していると、この世界はいつも自分を脅かす危険な存在と映ってしまうので、しっかり自己防衛しなければ恐ろしくて不安で、安心できない。そのため、夜も警戒して「見張りを続ける」ので眠れなくなるのだそうです。ところが自分は守られているんだという世界観があれば、むやみに戦う必要もなくなるので安心して自分を任せられるようになります。

フランクルは「人間は結局、恩寵の手の中におちるものである」と語っています。私はこのことばを「人は神の恵みの御手の中に、結局は真の居場所を見出す」と読み替えています。大きな恵みの手に支えられ包まれている自分を信じ信頼できるとき、無意味な心の闘いに終止符を打つことができると思います。旧約聖書には、「とこしなえにいます神は住みかなり、下には永遠の腕あり」(申33:27) と記されています。「もし落ちても下で支えてくれる力強い神の腕がある。だから奈落の底には決して落ちない、大丈夫」と言えることはどんなに大きな力でしょうか。

昔、英会話宣教師として奉仕されたノ−スダコタ出身のジニーさんの父親の口癖は「GodisGood」「IamOK」だそうです。ある時、農作業中にトラクターに腕が巻き込まれ切断する大事故にあいましたが、その時でも「God is good」と心配する子供たちに語りかけたそうです。娘の彼女の眼に、父の信仰が大きく見えたそうです。

1 神の摂理

パウロは今日の箇所で、「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」(28)と確信を持って語ります。すべてのことですから、「艱難や試練や災難。あってほしくない悲しい事件、生まれながらの自分の環境や境遇、私たちの失敗や過ちさえも」そこには含まれます。この世の料理人はまず良い食材を選ぶことから仕事を始めます。しかし、神様は良きことをされるために、材料を選ばれません。どんな素材でも最高の料理にかえ食卓をよろこびで満たしてくださることがおできになります。これが「全て」の意味です。全てのことを働かせて、究極において、最善を成し遂げてくださる神の愛の働きかけを、「摂理」といいます。摂理ということばをクリスチャンになるまで私は知りませんでした。ある先生が「愛の神が、愛を基調にして、愛を土台にして、究極において最善に導こうとしておられるご計画」と定義されましたが、摂理とはなんと美しいことばでしょう。神は「良きお方なのでよきことしかなさらない」のです。

「あなたは慈しみ深くあられ、慈しみを施されます」(詩119:68)

ですから、私たちは、最善をなされる神の恵みの御手にすべてを「任せる」ことを学ばなければなりません。何でも自分の力でやってきた自信家は、神に任せることに抵抗があります。神とは縁遠い生活をしてきた人はどう任せたらいいのかわからず戸惑います。不安感の強い人は、神に任せることができず、すぐに目に見える結果を求めてしまいます。

私たちの人生には、委ねることを学ばなければ解決できないことも実は多くあります。神の恵みの腕が下にあり、恵の御手が人生の大事な部分を導いておられることを受け入れたいものです。フランクルが言ったように、私たちは安心して「恩寵の御手に陥って」良いのです。

詩31:14−15では「時」を委ねること、詩37:3−5では「道」、つまり自分の進退や将来の道を委ねること、詩55:22では自分の「重荷」を委ねよと勧めています。

不眠患者が眠りに身をゆだねる時に、安心して眠れるように、さまざまな思い煩いに悩む時に、神の「摂理」にお任せすることを学ぶことによって心の平安を得るのです。

2 神の御計画 

神様は1つの大きなご計画の中に私たちをとらえ、ゴールに向かって導かれています。神のご計画の最終ゴールは、「御子の形と同じ姿になる」(29)ことです。これは、すでに神が定められている決定事項であり、人類救済の最終ゴ−ルです。終末の日、キリストが再びおいでになる日、すべてのクリスチャンは、古き肉の体を投げ捨て、すべての労苦から解放され、栄光の姿に変えられ、天の御国に入ります。そのために、「神はあらかじめ知っていた人を定め、召し、義とし、栄光を与える」(30)という一連のステップを明らかにしてくださいました。この1連のステップを、「黄金の鎖」と言います。永遠の昔に定められ、知っていただき、やがてキリストのもとに招かれ、信仰を告白し、罪の赦しを受けて義とされ、聖霊のお働きの中で聖くされ、終わりの完成の日を未来に待ち望む者とされています。

神様は「黄金の鎖」で見事につながれた人生をご用意して下さっています。なぜ私がこのような恵みをいただいたのか、その理由を尋ねもとめることはできません。それは神の御心の中に隠されているからです。神が私たちを選んでくださったという「始まり」と、神が私たちの救いを完成してくださるという「終わり」は、神の御心の中に隠されています。

私たちははじめもなければ終わりもない、無目的な人生ではなく、黄金の鎖でつながれた道を歩んでいるのです。しかも、その途上で起きる全てのことについて、神は究極において最善を成し遂げてくださるのです。

「神のなさることはすべて時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道の書 3:11)


祈り

主よ、究極において最善をなされるあなたの御手に、すべてを委ねることを学ばせてください。
小さな自分の力で、神がなさろうとしてくださっている 良きことを妨げてし
まうことがありませんように。
                                    

      

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